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政治

きし のぶすけ

岸 信介[1896 - 1987]

『小林一三全集』第7巻に収められた「大臣落第記」(初出は『中央公論』1941年5月)

商工大臣(第24代)、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣(第56・57代)などを歴任。

 1940年、第二次近衛内閣が組閣され、財界から小林一三が商工大臣として入閣。そしてその次官には、岸信介が前内閣より留任した。その年提出された経済新体制案に対しては、財界人たちから非難の声が上がる。
 財界は「重要産業統制団体懇親会」を結成して小林商工大臣を支え、経済界の自主統制を主張して実権の確保を図る。これに対して企画院を中心とする軍部は、経済新体制として、所有と経営との分離による重要産業の国営化や、統制団体の役員を政府による任命制とするなど、私企業に対する官僚統制の強化を図ろうとした。この基本政策の食い違いから、企画院案に猛烈に反発したのが財界代表の小林一三であり、企画院案実施の先鋒が革新官僚のエース、岸信介であった。
 1941年、企画院の官僚数人が逮捕される事件が起こり、岸次官は辞職する事となる。一方一三も、ブレーンであった一般人に政策への意見を求めた事が「機密漏洩」として取り沙汰され、結局商工相を辞任する。この時一三は、雑誌に「大臣落第記」を寄稿して心情を吐露している。
 小林一三と岸信介との対立は、一般に自由主義経済と統制経済との争いとして説かれるが、岸自身はそうとばかり捉えていた訳ではないようだ。「小林さんという人はわれわれみたいな官僚とは、違つた感覚を持つていた。」(「わが政争史」『特集文芸春秋 今こそ言う』文芸春秋新社、1957年4月 )「純粋の民間人として、事業の鬼と言われる人だろう。そういう人が来たんだから、合わんというのが、根本ですよ。」つまり、人柄の違いであったという。「大臣になつての物事の見方、考え方というものは、やつぱり単純に民間会社を経営するのとは、また別個の心構えが、必要であつたわけだな。」

いしかわ ひであき

石川 栄耀[1893 - 1955]

石川栄耀「新生日本の国土計画」(日本商工経済会、1946年1月)。「総裁」の書き入れから、小林一三が手にした1部と知られる。

都市計画家。

 1945年11月、戦災復興院の総裁に就任した小林一三は、地方自治の視点から自治体による復興の推進を主張した。東京都の都市計画課長であった石川栄耀は、大空襲後の復興事業として土地区画整理事業区域を計画決定し、復興計画概要案を立案した。
 同月8日の、小林一三の日記には、「東京都長廣瀬君のお招にて葵会館にゆく。都市建設に対する所謂権威者といふ顔ぶれ七、八名同席、石川計画課長の説明があつた。」と記される。「東京都を十五、六区に縮小し、各区の周囲はグリーンベルトに色彩し大道路にてつなぐ、人口は三百万人を標準とする。都の周囲に八王子、川越、浦和、□の台と言つたやうな八つの衛星都市を育成せしむ、国際飛行場百万坪を海岸に埋立てる云々。」一三は「大に参考になる点もあつた。」と漏らしている。さらに同月17日の条には「内閣にて東京都設計に対する石川君の説明があつて復興院の連中も大分集まつた。」と見える。石川栄耀の意見が政局内にも伝えられる運びとなったのは、戦災復興院総裁である小林一三の理解があっての事だろう。
 その石川栄耀が、新宿角筈一丁目に復興協力会を結成した鈴木喜兵衛らの要望を耳にする。焼け野原になった住宅地を、繁華街にしたいという。石川は一帯を区画整理し、浅草や銀座とともに新東京の中心の一つとなる、健全な娯楽センターを造る計画案を立てた。その中核に歌舞伎劇場の誘致を目論んだ石川は、町名の変更に「歌舞伎町」の名を提案する。こうして1946年、歌舞伎町が誕生した。
 その後、小林一三も地元からの期待に応え、生涯最後となる新劇場の建設に着手する。1955年8月、東宝重役会が開かれ、株式会社新宿コマスタジアム新設の件が協議された。翌年の11月、大阪に「梅田コマ劇場」、12月には歌舞伎町に「新宿コマ劇場」が開場された。

いしばし たんざん

石橋 湛山[1884-1973]

大蔵大臣(第50代)・内閣総理大臣(第55代)他を歴任。

 戦前はリベラルな立場から、大正デモクラシーをリードするジャーナリストとして活躍。戦後は、吉田内閣の蔵相、鳩山内閣の通産相を歴任。1956年に内閣総理大臣。
 石橋湛山と小林一三との間には、公私にわたる様々な往来があった。中でも1950年12月から直面した問題は、各々真剣に取り組まざるを得ないものとなった。当時、公職追放中であった元日本自由党総裁、鳩山一郎からの連絡が一三に届く。ダレス国務長官顧問が「来春早々再び来訪につき、それ迄に日本の希望及国策に関する意見を求められたので、私と野村、石橋四君と協議して報告案作成の会合をしたい」という(『小林一三日記』)。後日、鳩山邸に会合し、石橋及び元駐米大使の野村吉三郎と共に色々打合せた「が、結局、私が執筆して、それを原案として討議することに決まつた。私は今年中に書き上げるつもりである。」と、原案の作成を一三が引き受ける事になった。
 明けて1951年1月、「意見書提出案に就て協議」のため、石橋、野村、一三の他、元満州重工業総裁の高碕達之助、元商相の石井光次郎が鳩山邸に集った。ところがその後、2月6日に「内密にてダレス特使に鳩山君、石橋、石井両君と特使の宿所帝国ホテルに於て午後八時より三時間会談」が行われたと、一三は同11日になって告げられる。日記は「俄かに行くことになつたので旅行中の高碕、野村両君并びに在阪中の私が出席し得なかつたことが残念」と記す。同16日付の紙面では「小林一三氏の意向をも加え」た意見書が提出されたと報じられた。
 1957年1月、小林一三が没すると、同31日、宝塚大劇場で宝塚音楽学校葬が執り行われ、時に内閣総理大臣となっていた石橋湛山の弔辞が披露された。その文には「今や国事ますます多難、翁のごとき練達の士、君に待つべきものいよいよ多きとき、にわかにその急逝に会い誠に痛惜にたえません。」の語が見える(『東宝』 1957年3月)。

おおや しんぞう

大屋 晋三[1894-1980]

帝人社長。商工・大蔵・運輸の各大臣を歴任。

 戦後、帝人の社長としてカリスマ的な経営手腕を発揮した大屋晋三は、第2次・第3次吉田内閣でも重用された。運輸相在任中の1949年には「日本国有鉄道」が発足する。
 同年4月、小林一三の『日記』には、大屋運輸大臣の特使が「私に今度新に発足すべき国有鉄道会社の総裁になつてほしい」との書状を持ってきたと見える。一三は、老齢等を理由に辞退する事とした。しかし懇意にしていた吉田茂への慮りもあって、ひとまず「創立を急ぐ為め一時私が必要ならば、総裁でも監理委員でも、観板的に利用することは一に吉田首相のお心次第で異議はありません」との返事を認めた。写真は、一三による返書の下書き冒頭の一枚である。
 5月、慶應・三井の先輩で政財界のとりまとめ役でもあった池田成彬を大磯に訪問すると、「吉田総理大臣本日の閣議を欠席されて来訪」があり、会談の結果、日本国有鉄道の総裁を「どうしてもお引受けをしなくてはならぬ運命になつた」という。
 ところが、同時に公職追放の解除を願い出ていた小林一三だが、その許しがなかなか得られない。解除がないとなれば、国鉄総裁の話も打ち切りとなる。結局、一三の追放解除を、大屋晋三がGHQ民政局長コートニー・ホイットニーに掛け合ってみたが、再考を求められたという(大屋晋三「小林さんと私」『小林一三翁の追想』)。6月1日から発足する日本国有鉄道の総裁は、運輸次官であった下山定則に決まった。
 そして続く7月に惹起したのが所謂「下山事件」である。ニュースに接した一三は慄然とした。「政府計画通り私の追放が許されて六月一日初代総裁に就任して居つたとせば私が此運命に陥入つて居つたかも知れない。『何といふ運のよいことでせう』と病中の家内は述懐せられて、涙ぐんで同情した。実に然り、私なぞは下山氏より尚一層反感を受ける人柄に出来て居るから家内がそう思ふのも無理はないと思つた。」

さとう なおたけ

佐藤 尚武[1882-1971]

外務大臣、参議院議長、駐ソビエト連邦大使等を歴任。

 1940年4月、小林一三は「訪伊経済使節団」代表となって、日伊の通商協議のためイタリアへ出発する。この時、駐イタリア特命全権大使として団長を務めたのが佐藤尚武であった。既にポーランド、ベルギー、フランス等で公使・大使として外交業務に携わっていた佐藤は、フランス語・ロシア語が堪能で英語・ドイツ語も解したという。国際的な社交マナーに通じていた佐藤のお陰もあって、イタリアでの修交行事はスムースに進んだ。公式の場では、佐藤の振る舞いを見習って、一三も威儀を保つ場面があったようだ。
 「訪伊使節日記」(『小林一三日記』第一巻)に、その様子が詳しく書き留められている。5月23日、第260代ローマ教皇、ピウス12世(Pius PP. XII)を訪問する。写真は謁見に望む一同。前列左から3人目が小林一三、4人目が佐藤尚武。また、5月25日には、イタリア国王、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)の招宴に出席した。陛下は「至つて小柄で、黒の軍服に長靴をめされいろいろの勲章を飾られて居るけれど、如何にも御質素に、竜顔御うるはしく、至つて小声にて佐藤大使と英語にて何事か語られ玉ふ。佐藤大使は平然として、おあいてを申上げてゐる。その態度は実になれたものだと感心して見てゐると、やがて、陛下は自から御先導になつて、先刻私達の待合せて居つた広間においでになり、そこに居合はす重臣達に、一々、御会釈、御挨拶、御握手、いとも丁寧にわたらせられ、侍従長の御先導にて食堂に進ませ玉ふ。」
 大広間の大テーブルに、皇帝や大使、大臣の面々と並んで席に着いた一三は、「こういふ晴れがましい食卓にて、而かも正面中央に位置することに経験のないだけに、如何にも恐縮のていたらくである。」と告白している。

ひらお はちさぶろう

平生 釟三郎[1866-1945]

1937年、阪急西宮球場の始球式に立つ平生釟三郎

東京海上保険専務、川崎造船所社長、日本製鉄会長。甲南大学創立者、文部大臣。

 小林一三は、『平生釟三郎追憶記』(拾芳会、1950年)に「三男をカバン持ちにお願して」の一文を寄せている。その三男とは、後に阪急電鉄社長などを務めた小林米三の事である。同文では、平生釟三郎について、「米三の大恩人であるから、従つて私の恩人でもある。」と、冒頭から一三は切り出す。
 1935年、平生釟三郎を団長とする経済使節団がブラジルを訪問する。この時、小林一三は、「一度外国を見せてやりたいと考えておつた」小林米三を、平生「氏御夫妻の鞄持ちとして、連れて行つて頂けないものだろうか」と依願したという。「氏なれば遠慮なく叱つてもらえる、人に仕えることも勉強させてもらえる、又、直接色々薫陶もうけられる、」と。こうして米三は、平生のお供をして7ヶ月の間、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパの各国を見学して帰ってきた。
 翌1936年、広田弘毅内閣で、平生釟三郎は文部大臣に任命された。この年、米三の結婚が決まると、その媒酌の労を平生が取る。披露宴の席で、新郎の紹介にと持ち出した平生の話には、一三も覚えがあった。「米三が大学教育をうけるより、高等学校でやめて、あとは実社会に早く出る、と言つて私を困らせた時、私は平生氏に、何んとか旨く話して下さい、とお願したところ、『よろしい、そんなことはなんでもない、僕が引受ける。』と、それから米三を呼びつけて、何か話されたと見えて帰つて来ると、『大学へゆきます、』と、簡単に平生氏の言ふ通りになつた。」
 米三の変化に驚いて、一三は、「余程、青年を引きつける力があると見える。この力があるので、若い人達が『先生々々』と言つて集つて来る。実に羨しい話で、我々実業家の中では、何人も及ばない高徳の人格者であつたと敬服している。」と、平生に対する賛辞を惜しまない。

おざき ゆきお

尾﨑 行雄[1858-1954]

政治家「憲政の神様」「議会政治の父」。号「咢堂(がくどう)」。

 写真は、1928年5月、宝塚大劇場に同席する、尾﨑行雄と小林一三。紙焼き写真の余白に、「宝塚大劇場 尾﨑咢堂翁とともに 逸翁」と一三自ら書き付けている。一三にとっても、記念すべき出来事であったようだ。
 ところで、写真の小林一三は、畏まって何だか緊張している様子に見える。それもその筈で、実は一三は、尾﨑行雄に対し、敬慕の念を抱いていた。一三の洋行記「日々是好日」(『小林一三日記』)1936年3月の条では「私は尾﨑咢堂先生の人格とその処論を崇拝してゐる一人であるが、最近こゝ三、四年前からの先生の御著述を読んで其御主張に敬服して居つた」と述べている。
 塾長の福澤諭吉に目を留められていたにも関わらず、反発して慶應義塾を飛び出したという尾﨑。独自の考えに拠って立つ、福澤諭吉の教えに他ならないその「独立不羈」の真の実践者として、一三の目に尾﨑は映っていたのではないか。1945年~1947年間の日記にも、尾﨑行雄の政治姿勢に賛意を表する一三の言葉が見られる。この頃、公職追放下にあった一三は、自身の言説を、直接、社会に挙げられないでいた。そうした敗戦下の日本にあって、90近い老齢にもかかわらず、対外的にも毅然として態度を曲げない、包み隠しの無い言動を発する尾﨑を、一三は好ましく思っていた。

まつおか ようすけ

松岡 洋右[1880-1946]

1940年松岡外務大臣と

外交官、南満州鉄道理事・総裁、第2次近衛内閣外務大臣。

 1940年の第2次近衛内閣において、松岡洋右は外務大臣、小林一三は商工大臣として同席した。それより以前、1937年に一三が中国大陸を視察に訪れた際、当時、満鉄総裁を務めていた松岡に面会している。「夜、松岡総裁私邸にておいしい中華料理の御馳走になり、いろいろと有益なるお話を拝聴せり。」と旅行記に記す。(「朝鮮・中国北部を覗く」『小林一三日記』)
 その後、1940年4月に一三は「訪伊経済使節団」代表となって、日伊の通商協議のためイタリアへ出発する。その旅からシベリア経由で帰国する途中の、中国からの船中で、近衛文麿からの電報を受け取る「途中ヨリ飛行機ニテ至急お帰り願度し」。7月、門司に帰港すると飛行機で東京に向かい「近衛公に面会、入閣を承諾、商工大臣、午後十時頃親任式」を済ませ、一三は第2次近衛内閣の商工大臣となった。
 商工省は現在の経済産業省に相当し、昭和前半に商工業の奨励・統制を担った機関。早速その年9月、一三は蘭領印度特派使節としてオランダ領東インド(現インドネシア)に派遣される。8月30日、外務大臣官邸で壮行会が催され、その夜、寝台車に乗って、一三は東京駅から旅立った。写真は、見送りにホームに現れた松岡外相と、窓越しに握手を交わす一三の姿を列車内からとらえたもの。カメラを意識してか、互いに和やかな様子である。けれども、蘭印に到着し、石油などの物資供給が確保されるよう交渉を進めたが(第2次日蘭会商)、オランダと協調体制を敷いていた英米による妨げで不調に終わる。一三は11月に帰国した。

よしだ しげる

吉田 茂[1878-1967]

外務大臣、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣などを歴任。

 1945年11月、終戦から約2ヵ月後、幣原喜重郎内閣は「戦災復興院」を設置し、小林一三を初代総裁に据えた。戦中に商工大臣を辞職し、政界から距離を置いていた一三を、再び政治の場にひっぱりだしたのは、同内閣で外務大臣を務めた吉田茂であった。吉田の懇望を受け、一三は近衛文麿に相談するが、吉田は先回りして近衛にも通じていた。「一時荻外荘にゆく。公爵閣下に面会せしところ、昨夜より吉田外務大臣より電話、今朝又特使来り委細の話は聞いてゐる云々。『国家の為め奮発して引受けてやつてくれ、午後七時には吉田君も来る約束があるから能く話合つて引受け玉へ』といろいろとお話を承はると感激して自分の確信不確信は別問題として御一任せざるを得ないやうな心持ちになつて困る、弱き心よと強がつて見たくなるので困る。」(『小林一三日記』)と、近衛からの要請もあり、意を決した。
 その後、吉田茂は1946年5月に第一次内閣を組織するが、翌年の総選挙で日本自由党は振るわず、吉田は下野。しかしそうした間も、一三との連絡は続いていた。同年7月の『日記』には「東京吉田茂君より書留来状『先年来話合つた米穀管理法に就てパンフレットの如きものあらば送付を乞ふ。此度は党議として自足自給案を提出したいと思ふから』云々、即ち一文を草す「此国を救ふの道」といふ題でもつけたいところ也。「食糧問題の解決、インフレ対策、健全財政」の三問題にて簡単ながら要領を得たる一文也。」と記される。
 写真は、小林一三に宛てた、吉田茂からの8月1日付けの手紙。一三が書き送った一文に礼を述べ、「食糧自給自足論、貴意ニ基き、過日、議会ニ於ける小生演説中に言及致候」と一三が説いた食料の自給自足論を議会で取り上げた事を伝える他、「今後時々、貴論承度奉願候」と以降も一三の考えを聞きたいと延べている。
 その通り、早速8月14日に吉田は一三を会食に誘ったらしく、「総裁は頗る元気であつた。遠からず総理大臣として再び朝に立つ自信を持つて居られた。いろいろ政策に就て話合ふ。」と一三は記している。時に日本自由党総裁であった吉田は、翌1948年10月に再び内閣総理大臣となり、リーダーシップを発揮する事となった。

このえ ふみまろ

近衞 文麿[1891 - 1945]

近衛邸を訪問

近衞家第30代目当主。公爵。内閣総理大臣(第34・38・39代)。

 1927年、小林一三は、東京での仕事のために、東京市麹町区永田町に住まいを持った。偶然か、それは近衛家と背中合せの一邸であり、以来、公私に渡る交流が二人の間に続く。
 1940年、一三は「訪伊経済使節団」代表としてイタリアを訪れる。その帰途、シベリアを経由して中国大連から船に乗ると、そこへ「途中ヨリ飛行機ニテ至急お帰り願度し」と近衛文麿からの電報が届いた。門司に帰港すると飛行機で東京に向かい「近衛公に面会、入閣を承諾、商工大臣、午後十時頃親任式」 を済ませ、一三は第2次近衛内閣の商工大臣となった。商工省は現在の経済産業省に相当する機関。早速、一三は蘭領印度特派大使としてオランダ領東インド(現インドネシア)に向かい、石油などの物資供給が確保されるよう交渉を進めた(第2次日蘭会商)。
 1945年、戦争責任を問われた近衛文麿は、12月16日早朝、服毒自殺を遂げる。一三の日記には「昨日正午公爵にお眼にかゝり、数十分お話を承はり御元気の御様子を拝して、今日しも幽明其境を異にする夢の如き幻世を思ふ時、涙のにじみ出つるを禁じ得ないのである。」と述懐される。
 小林一三記念館には、近衛文麿が「費隠(ひいん)」と命名し、自筆の扁額が掛かる、二畳の茶室が今ものこる。