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演劇

たけち てつじ

武智 鉄二[1912-1988]

演劇評論家、演出家、映画監督。

 若手の歌舞伎役者らを用いて古典を演出した「武智歌舞伎」や、能や狂言の古典芸能と前衛演劇との結合を試みるなどして、演劇界の革命児と呼ばれた武智鉄二。
 宝塚歌劇でも1956年11月の花組公演「うかれ大名」を演出している。小林一三は、「武智先生の狂言レビュー「うかれ大名」十二場を面白く見た。脚本を読んだ時は、ただ狂言の筋を運んでゆくだけで、トテモ、レビューには無理だと思ったが、なかなか滑稽味が充実して生徒達も気乗りして演じて居るので、セリフ廻しも上手になった。背景も切り出しも、簡単に気がきいて居る。」(「おもひつ記」『歌劇』1956年12月号)と好意的に評価した。
 一方、その武智を驚かせたのが、その1956年、東京新宿と大阪梅田とに現れた「コマ劇場」。客席の中へ半円形に張出した舞台上に、3段の回り舞台がコマのように回る、画期的な劇場。演劇やショーの演出に、従来の額縁舞台と異なる新たな工夫が必要となる。「コマ劇場」は、一三が建てた最後の劇場であった。
 翌1957年、小林一三が逝去すると、武智鉄二は追想する文を著した。「“コマ劇場”というのは、プロセニアム・アーチから解放された、新時代にふさわしい、というよりもむしろ、現代演劇を推進して行く上に、絶体に必要な、新形式の劇場なのである。」(「小林一三の功罪」『芸術新潮』1957年3月)武智は、一三の独創的な劇場構想を絶賛した。
しかしまた、「“コマ劇場”は小林翁のライフ・ワークだったし、演劇史上最大の功績でもあった。しかし円型劇場の理念を中途半端のままで、後継者たちにゆずり渡したのは、罪の意識のない罪と言えようか。」と、一三の夢の劇場を、後の劇場人・演劇人達が果たして活かすことが出来るのか、危惧の念を抱いている。

※プロセニアム・アーチ 額縁の如く仕切られたように客席から見える舞台空間。

すみ はなよ

寿美 花代[1932-]

1955年、東宝砧撮影所にて、小林一三と。

宝塚歌劇団の元星組男役トップスター、女優。

 宝塚歌劇団35期生として1948年に入団した寿美花代は、1953年の月組公演『アンニー・ローリー』では、宝塚新人演技賞を受賞する。人気の男役として活躍する一方、東宝や宝塚映画にも出演を始めた。1954年7月の小林一三の日記には、「「水着の花嫁」を見る。寿美花代初めての映画として大成功」と記される。池部良とのコンビで、寿美が初主演を果たした映画、東宝「水着の花嫁」である。舞台に、銀幕に、明朗快活な寿美のキャラクターが観客を魅了した。
 1956年の12月、天城月江・故里明美・淀かほる・寿美花代の4人が、小林一三を訪問する。その模様は、『歌劇』1957年新年号で「座談会/-1957年の- 宝塚の新年にのぞむ 小林先生をお訪ねして」の記事となった。ちょうど、梅田にコマ劇場が開場したばかり、一三は「コマ劇場も出来たし、テレビも、サンケイがもう一つ出来て、その社長を私が引受けているし、宝塚映画も本格的に撮るからテレビ、映画、コマと仕事が増えるからね。」と語る。すると寿美花代が、「身体が三つ位いりますね。」と返す。一三は、人を増やし、スターを増やす事が必要だ、と意気込んだ。寿美はまた、歌舞伎町コマ劇場にも触れ、「東京の方ももう出来ますね。」と言うと、「十二月二十八日に開場式をして、これは映画で開ける。トッドAO式とかいう「オクラホマ」、梅田コマ劇場も同時封切にして三ヵ月位ロングをやり、四月に舞台一本のものをやって、本格的コマ劇場のものをやる。」一三の頭の中には、既に大きな夢が膨らんでいた。
 その新年の1月、小林一三がこの世を去ってしまうなんて、誰一人思いもしなかったであろう。寿美花代は亡き一三の夢を形にしようと、舞台に専念したに違いない。1958年には、『三つのワルツ』で、淀かほるらとともに芸術祭奨励賞を受賞。更に1960年の『華麗なる千拍子』で、寿美は芸術祭賞を受賞した。

たかみね たえこ

高峰 妙子[1899-1980]

宝塚歌劇団第1期生。

 宝塚新温泉を開いた小林一三は、1913年に婦人博覧会を開催するなど、女性客を楽しませる工夫を求めていた。この年、少女たちによる「宝塚唱歌隊」を組織し、7月、第1期生16人を採用する。八十島揖子・雲井浪子の姉妹や大江文子らとともに、高峰妙子も14歳でこれに加わった。12月には4人を加えて「宝塚少女歌劇養成会」と改称される。
 1914年、婚礼博覧会が始まり、4月1日、宝塚少女歌劇の第1回公演が行われる。初演の演目は、桃太郎を題材とした歌劇「ドンブラコ」、「浮れ達摩 」、舞踊「胡蝶の舞」他、管弦合奏および合唱が披露された。第1回の「ドンブラコ」で桃太郎を演じた印象からか、一三は、高峰の事を名前では呼ばす、いつまでも「桃太郎々々」と呼んでいたという。
 1973年、小林一三の生誕百年を記念して、『歌劇』誌上で特集が組まれた。「座談会/小林一三先生を偲ぶ」の記事の中に、高峰妙子らの発言も書き留められている。「小林先生について一番印象に残っているのは」との記者の問いかけに、高峰は、「大正二年頃に週一度修身の時間があって、それは名修身でした。」と話し始めた。「その時間に小林先生がおっしやったこと、今でも覚えてますし一生忘れない、いい文句をおっしやいました。“君たちはこの中でしっかり勉強をする。人間には標準がある……と手で示されます……普通より下にさがるようでは立派になれない、標準より上へあがるようにするには普通の勉強をしただけでは突き出られないから、よく心がけて勉強をしなさい”。今きくと何でもないことでしようが、大正の人間だし、まだ子供だったから、よくききました。」(『歌劇』1973年1月)
 1927年、宝塚少女歌劇団を退団した高峰妙子は、その後も、歌劇団や宝塚音楽学校で声楽の講師を務めた。写真は、1953年に開かれた、歌劇団生徒の同窓会。中央で、マイクに向かって立つのが高峰妙子である。

しらい てつぞう

白井 鐵造[1900-1983]

宝塚歌劇団元理事長、演出家。

 宝塚歌劇のレビューを完成させた第一人者とされるのが白井鐵造。1927年、岸田辰彌のレビュー『モン・パリ』が成功すると、歌劇団は積極的に演出家を海外へ送り、ヨーロッパの舞台芸術を独自に取り入れていく。1928年、小林一三の命により、白井鐵造も渡欧し、パリでレビューを学んだ。
 1930年、白井は帰国し、第1作となるレビュー『パリ・ゼット』を発表。3ヶ月続演の人気を呼ぶ。主題歌「すみれの花咲く頃」もヒットし、宝塚歌劇を代表する楽曲となった。その後、再度渡欧し、『ローズ・パリ』『サルタンバンク』『花詩集』などの大ヒット作品を次々に発表する。戦後も、宝塚初の一本立て作品となった『虞美人』や『源氏物語』の演出に取り組むなど、数々の作品を遺した。
 その『虞美人』に対しては、小林一三も好評を記す。「宝塚大劇場に「虞美人」二部三十二場、三時間公演を見て酔わされてしまった。白井先生が「宝塚は関西の、そして日本の代表的な名所であるから、子供ばかりではなく、大人も外国人も、誰が見ても面白いもの、宝塚でなくては出来ないものをやらなければならない。今度の『虞美人』は、そういう意図をもって企画したものである」と、声明したるごとく、宝塚でなければ見られない、御覧になったお客様から、これこそ正に「天下一」と折り紙がつけられるものと信じている。」(「おもひつ記」『歌劇』1951年9月号)
 また「作曲、振り附け、舞台装置、衣裳、小道具それぞれ協同演出の実をあげ得たることを感謝する。この種の大規模のお芝居においてこそ、総合芸術として各部の一致協力が必要であって、同時にその企画的準備が大事だと思う。東京のアーニー・パイル劇場も早晩我々の手に戻って来るから、私はこの「虞美人」をひっさげて東京人に見て貰いたいと念じている。今からその仕度にかかってもよいと思う。」と絶賛。アーニー・パイル劇場 (Ernie Pyle Theatre) は、戦後、接収されていた東京宝塚劇場の事。1955年、星組公演『虞美人』で再開された。

あまつ おとめ

天津 乙女[1905-1980]

1956年、宝塚撮影所落成式にて。一三の右隣が天津。

宝塚歌劇団生徒・理事。日本舞踊家。

 1918年、宝塚の少女歌劇が初めて上京し、帝国劇場で5日間の公演をした。その時、初めて東京から入団した4人の生徒の中に、当時12才の天津がいた。芸名の由来となったのは、百人一首の僧正遍昭「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」。その年『馬の王様』『鼎法師』『お蠶祭』で初舞台を踏む。
 1923年の事、1月22日早朝、公会堂劇場から出火し、パラダイス劇場や宝塚音楽歌劇学校の建物が全焼してしまう。「もう舞台がなくなったと泣いている私達に、翌日「すぐ、いい劇場をたてて上げるよ」と言われて、今の新芸劇場が早くも三月には開場し、『日の御神』の中で五人三番叟を私も踊らせて頂きました。」(天津乙女「十二歳の印象」『小林一三翁の追想』)火災からわずか2カ月で建てられた木造の劇場は、当初、宝塚中劇場と呼ばれ、後に、宝塚映画劇場、宝塚新芸劇場と改称された。さらに翌1924年には、4,000人を収容する宝塚大劇場が落成する。すると一三は「大きい劇場が開いたから、ここにふさわしい発声法のお稽古をしなさい」と天津に教えたという。
 その後、日本舞踊に才能を発揮して、宝塚歌劇の日本物の伝統の立役者となったのが天津。楳茂都陸平、藤間小勘、花柳禄寿らに師事し、1930年、藤間流の名取となる。レビューの中に日本舞踊をとけ込ませ、オーケストラの洋楽で踊る日本舞踊を完成させた。
 小林一三の夢の1つは、宝塚歌劇を通じて日本の伝統文化を世界に紹介する事であった。それが初めて叶ったのが1938年の第1回ヨーロッパ公演。天津乙女たち宝塚少女歌劇団一行が「日独伊親善芸術使節団」としてドイツ・ポーランド・イタリアの26都市を巡演する。
 戦後、1948年には、小林一三の計らいで、生徒から初めて宝塚歌劇団の理事に就任。天津乙女は「宝塚の至宝」と呼ばれるトップスターの1人として、宝塚歌劇を支えた。

かすがの やちよ

春日野 八千代[1915-2012]

元宝塚歌劇団専科の男役。劇団名誉理事。

 端整な美貌から「白薔薇のプリンス」「永遠の二枚目」と謳われた春日野八千代。人気男役スターとして、宝塚歌劇団の現役生徒(団員)である事を、亡くなるまで守り続けた。
 1951年3月の月組公演『ローサ・フラメンカ』(菊田一夫作)を見た一三は、初めて演出に携わった春日野八千代の成功を褒めている(「おもひつ記」『歌劇』1951年4月号)。その文の中に、春日野のスター性を評する一三の言葉がある。「彼女の二枚目は、私から言えば日本一の二枚目だとウヌボレている。「イナセな書生ものとか、まげものでも情緒のある、すっきりしたものなんか演りたい」と言われているそうだから、また、歌舞伎には歌舞伎の演技があるごとく、宝塚にも宝塚的演技が必要だという主義を強調している。これは世間で、宝塚の舞台を見て甘い、乙女達の夢のようだと軽視している反抗心の現われであるかもしれないが、兎に角、二十五年間の舞台生活、実験の効果という点から、一見識を持っているのは嬉しいと思うのである。」そして、「私は宝塚に、その理想に生きて信念の強い春日野八千代を持っていることは、実に心強いことだと喜んでいる。」と。
 一方、春日野八千代は、「古い宝塚の生徒にとって、小林先生はお父様の様な方であり、また私たちには、人間が生きる上に於て、意識しないくせに絶対必要な空気の様な存在であり、全員を残らず暖かく照らして下さる太陽の存在であったと思っております。」と、「小林先生のおもいで」(『小林一三翁の追想』)で偲んでいる。

はなやぎ ろくじゅ

花柳 禄寿[1891-1976]

日本舞踊家(花柳流)、宝塚歌劇団講師。

 2代目花柳寿輔に入門し、花柳舞踊研究会、二十四日会メンバーとして活躍していた花柳禄寿。小林一三との出会いは、1932年。東京で舞台を見た一三が、禄寿の踊りに感心し、後日、面会に訪れた。その節、様々な話の末に、「学校(宝塚)へ稽古に来てやる気はないか、とのお話が出ましたが、私など、そんな腕前はございませんから、と申し上げたのですが「遠慮などせずに、子供達(生徒さん方のことを何時もこうおつしゃっておりました)を教えてやっとくれ」とおっしゃいました。」(花柳禄寿「芸又芸」『小林一三翁の追想』)
 家元が、宝塚歌劇の生徒達が東京公演に来た時に稽古をつけたらどうかと勧めて「芝の東宝寄宿舎で月の内六日間のお稽古をし、あとの一日は、私が素踊りの衣裳に鬘をつけて、何か一番ずつ踊って生徒さん方にお見せするというお約束が出来上りました。」
 しかしその後、東京で戦火に遭い、宝塚への移住を決心する。「先生も、こっち(宝塚)へ来るようとおっしやって下さり、只今の家に落着きます迄は家のことまで度々御心配頂きました。」そして宝塚の新居での稽古場開きに際し、小林一三が贈ったのが、舞台に掲げる扁額「藝又藝」(写真)である。一三は太い筆に墨をたっぷりと含ませ、大きな文字を一気に書いている。
 1935年からは、宝塚歌劇団の講師となり、生徒達の日本舞踊に稽古をつけた。中でも、花組で主演男役を演じた奈良美也子(元花組組長)は、花柳禄寿を師匠とし、その養女となって花柳禄也を名乗る。禄寿とともに歌劇団生徒を指導し、日本舞踊家としても活動した。自身も古典舞踊に優れた技を見せた花柳禄寿であったが、「私にしょっ中おっしゃっていたのは、宝塚大劇場の舞台で『鏡獅子』を踊れ、というおことばで、これが、とうとうお目にかけられなかったのが残念なことの一つ。」と、小林一三の想いを振り返っている。

ふるかわ ろっぱ 、古川 緑波

古川ロッパ[1903-1961]

日本劇場での古川緑波一座公演を伝えるパンフレット(『日劇ニュース』第50号、1937年)

舞台・映画で活躍したコメディアン。

 早稲田大学在学中から、古川ロッパは菊池寛に認められ、文藝春秋社で雑誌『映画時代』の編集に就いていた。その間、素人ながら声帯模写など芸達者な一面が知られ、菊池や小林一三の勧めで舞台に上がる事となる。1932年、宝塚中劇場での正月公演『世界のメロデイー』に初登場。花吹雪のフィナーレで歌いながら大階段を降りるという、破格の演出を受けた。
 1934年、日比谷に東京宝塚劇場が開場。翌年、東京宝塚劇場直営の劇場として「有楽座」が開館すると、「東宝ヴァラエテイ・古川緑波一座」を立ち上げ、有楽座の座長となる。狂言『ガラマサどん』などを上演し、新しい都会的な喜劇のジャンルを開拓して大評判となった。
 1936年3月のロッパの日記には日劇での興行が連日大入りとなり、「日本の東京、その真ん中の東洋一の大劇場を、満員にしてセンセーションを起してゐるのだ。死んでもいゝ、死んでも本望―此の上何を望むべきか、といふ気持ちである。神も仏も護らせたまふ、幸せな僕である」と高揚した気分を記している。(『古川ロッパ昭和日記・戦前編』晶文社、1987年)。
 また大の美食家・健啖家としても知られたロッパは、1937年1月、一三に誘われて築地の「豊竜」で牛肉を御馳走になる。ところが「小林一三って人、偉い人ではあるが、遊ぶことはゼロだと思った。ビジネスオンリー。それでも人生か、と哀れみたい位。」などと、恐らくは酒を嗜まなかった一三を揶揄する言葉も残している。一方、その年の5月には、小林一三夫妻の仲人により、ロッパの結婚式が東京会館で挙行された。人気を反映して来会者数百名といい、ロッパは「お辞儀ばかり何百回としたので、へとへとになった」そうだが、「四時迄、づーっと小林氏がゐて呉れて、実によくして呉れた。」と、一三の温情を素直に喜んでいる。

つぼうち しこう

坪内 士行[1887-1986]

演劇評論家、戯曲家。早稲田大学教授。

 小説家、劇作家として知られた坪内逍遥の甥であり、養子ともなった。早稲田大学からハーバード大学に留学して演劇を学び、1915年に帰国した。1918年、小林一三は、その才を見込んで東京の士行を訪ね、宝塚歌劇団(宝塚少女歌劇養成会)の顧問に就いてくれるよう依願した。士行はこれに答えて大阪へと移り、1919年には宝塚音楽歌劇学校(宝塚音楽学校)の創立にも助力する。演出家としての第1作は、同年の『唖(おし)女房』。さらに士行は、この公演の主役雲井浪子と、この年の7月結婚する。写真は、士行・浪子とともに仲人の一三と妻のこう(右端)が並ぶ記念の一枚である。
 以降、1927年までの間、欧米文学劇や舞踏劇など約40作品を宝塚歌劇に提供し、黎明期の宝塚歌劇を支えた演出家の一人となる。「欧米で得た学識とミュージカルに対する理解は並ぶものがなく、宝塚の評判を高める原動力となった」と称される。1934年、東京宝塚劇場が開場してからは、文芸部員として劇の上演に関わり、1935年に有楽座が出来ると、東宝劇団の運営を任される。宝塚を離れてからも一三の厚情は変わらず「蔭になり日向になりして、私の一身上の些細な事にまで、心を配ってくれた翁の親切は、ただただ感激するよりほかはない。」(『越しかた九十年』青蛙房、1977年)と、士行は謝意を表している。
 1951年、小林一三は再び東宝の社長となって新たな夢を描いたが、この頃士行は母校の早稲田大学で教鞭を執るなど、東宝から離れていた。しかし1955年、一三は東宝芸能学校の創設を発案すると、その教授陣の筆頭に坪内士行を迎える。士行は、一三からの声がけを嬉しく思い「演劇の実際や理論を、むしろ楽しんで講じた」という。

トニー たに

トニー 谷[1917- 1987]

舞台芸人(ヴォードヴィリアン)。

 現在の東京都中央区銀座に生を受けたトニー谷が、やがて東宝を舞台として芸人としての人生を花開かせるのは、当然であったかも知れない。1940年、第一ホテル(新橋、第一ホテル東京)に職を得て、戦後も、アーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)や日劇のステージに関わる。
 1951年には、帝劇ミュージカルズ『モルガンお雪』でエノケン、ロッパや越路吹雪と共演し、東宝専属の芸人となる。以降、日劇ミュージックホールで観客を沸かし、東宝映画・宝塚映画のスクリーンで大暴れした。
 1954年の一三の日記には、「北野シヨー公演中のトニー谷、来る。十二時十分からトニー主演の『サイザンス・パリ』を見る。誠に面白いシヨーである。初日はトテモ下等で困つたといふ話で心配して居つたが、今日はそういふ下等の部分がカツトされて一時間充分に楽めた。これならばトニー劇団を作つて帝劇公演も可能だと思つた。丁度東京から来た秦社長が宝塚の新芸座を見物してゐるから、今夜行にて帰京する前に、一度此北野シヨーを見て貰ふようにたのむべしとおすゝめした。」と記される。一三も、トニー谷の芸人としての力量を認めていたようだ。
 その一方、無礼、破廉恥と、トニー谷の言動に対する避難の声も多く、絶頂期の人気は次第に陰っていった。写真は1956年。東京に来ていた一三が、彼の楽屋を訪れた。そこには一三による労いの言葉もあったのであろう、役の扮装ながら神妙な様子で後に添うトニー谷の姿が写っている。

こしじ ふぶき

越路 吹雪[1924 - 1980]

越路吹雪と

元宝塚歌劇団男役トップスター、舞台女優、シャンソン歌手。

 1951年2月、宝塚歌劇団在団中であった越路吹雪は、帝国劇場での舞台『モルガンお雪』で古川ロッパの相手を好演し、国産ミュージカル女優第一号と呼ばれる。小林一三も「『帝劇コミツクオペラ第一回公演』を見る。秦(豊吉)君の此計画はウマくゆくと思ふ。」と日記に記している。
 しかし同年6月の第二回帝劇ミュージックオペラ『マダム貞奴』では「越路吹雪は日本踊が拙づい」などと、厳しい批評も忘れない。この後、越路は宝塚を退団し、東宝の専属スター女優として活躍する。
 一三は1952年10月の第六回帝劇ミュージカルス『天一と天勝』を観て「越路吹雪は実にウマクなったものだ、これでは越路一座の帝劇といひ得るかもしれない。私は寧ろ越路を帝劇の専属俳優にして、結局帝劇は越路中心の劇場としてミユージカルシヨーを育て上げる時代が存外早く来るのではないかと思つた。」と日記に記す。『歌劇』誌に連載した一三のエッセイ『おもひつ記』には、「帝劇の『天一と天勝』で越路吹雪の成功を確信」の一文も見える。
 1953年春、越路吹雪はフランスへ渡り、パリでのエディット・ピアフのステージに大きな衝撃を受ける。翌年1月、越路がフランスから帰って初めての大阪での舞台を、小林一三は観るが「誠に企劃の貧弱なるに驚く。」と嘆いている。そして「宝塚出身のピカ一」である越路の舞台を「私が企画をたてるならば『巴里土産越路吹雪のシヨー』と題をつけて高木(史朗)君の『シヤンソン・ド・パリ』的に彼女の巴里見物の物語から、四ツ五ツ唄はせる丈でもよい。」と、越路の肩を持っている。「日本のシャンソンの女王」越路は、「魅せる歌手」として、一三からも太鼓判を押されていたのである。