小林一三による、東京での事業を、東宝・宝塚歌劇、ホテル・百貨店等、東急・東電・政務等の3つのテーマに分けて、
それぞれの事業の始まりや著名な人物との関わりを100トピックスで綴ります。

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1955年 東京宝塚劇場『虞美人』が大成功

1955年 東京宝塚劇場『虞美人』が大成功

東宝・宝塚歌劇

 1955年、東京宝塚劇場がGHQによる接収から解除される。記念すべき再開場公演は、星組によるグランド・レビュー『虞美人』であった。『虞美人』は、長與善郎の戯曲『項羽と劉邦』を原作とし、白井鐵造が脚本・演出を手がけたミュージカル作品。1951年に宝塚大劇場で初演され、初の一本立て(二幕)大作として3ヶ月のロングランを続けて、既に宝塚史上有数のヒット作と知られていた。  小林一三も、先ず宝塚大劇場で『虞美人』を観て 「流石に白井先生の大作にて大成功だと嬉しいのである。東京アーニイパイルが返つて来たらば第一番に再開記念興行としても立派なものだと思ふ。」 と日記に感想を遺す。さらに、1955年には 「星組の「虞美人」を見る。東京公演の準備公演として再演、中々面白い。三年前三ケ月三組の競演によつて既に確定的に評価されて居るものだけあつて、四月アーニイパイルヘ持つてゆく。必ず成功するものと安心した。」 と太鼓判を押している。  星組では、武勇に秀でた将軍、項羽を春日野八千代、項羽の寵姫で絶世の美女、虞姫を南悠子、項羽の最大のライバル、劉邦を神代錦が好演した。舞台上に本物の馬が登場し、項羽・劉邦などのメインキャストが実際に乗馬して演技するという大胆な演出も話題となった。  小林一三は、千秋楽を観て 「無事千秋楽まで大成功裡に終つた慰労の演説を一同をあつめて話す。涙が出るほど嬉しかつた。」 と記している。

1951年 森繁久彌を舞台に抜擢

1951年 森繁久彌を舞台に抜擢

東宝・宝塚歌劇

 昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人、森繁久彌は、1936年、東京宝塚劇場に入社して演劇の世界に足を踏み入れた。大部屋時代の森繁は思わぬエピソードを伝える。 或る日、名優熱演の舞台の裏で、  「こんな出し物じゃァ駄目だナ、おれが座長なら……」と怪気焔を上げていたら、すかさず私のうしろで  「成程、君が座長ならどういう出し物を出す?」と聞きかえした小柄なハオリハカマのお爺さんがいた。私は多分和楽の三味線ひきかお囃子のオッサンだろうと思って、  「ええ、聞きたきァお話ししましょう」とえらそうにペラペラ……。  「大体出し物に若さがないし、冒険がありませんな」と、よせばいいものを、口から出まかせ。日頃のうっぷんも交えてタラタラと述べたてたものだ。ところがそのお爺さんは、  「成程、なる程、それで……」と、中々の聞き上手、さんざんしゃべらせておいて、  「いや有難う。参考になったよ」と、えらそうな挨拶をして、さっさと消えて行ってしまったのである。  さてそのあと、聞いていた同輩が変にしらけた顔をしているので、どうしたんだと聞いたら、  「馬鹿だなァ、お前は。あれが社長だよ」(森繁久彌「杖と茶碗」『小林一三翁の追想』)

1937年 錦糸町に楽天地を開く

1937年 錦糸町に楽天地を開く

東宝・宝塚歌劇

 かつて東京市本所区錦糸堀(現、錦糸町)には汽車製造合資会社(現、川崎重工業)の工場があったが、それが1931年に移転すると、東京錦糸町駅前の跡地8000坪が空き地のままとなっていた。小林一三は「東京下町の大衆に健全な娯楽を提供」しようと、1937年、株式会社江東楽天地を創設、そこに総合レジャー施設を建設する。汽車会社に象徴されるようにその頃の錦糸町は工場地帯であり、駅前であっても淋しい場末の雰囲気が漂う有り様。そんな場所に突如として一大娯楽郷を造ると言い出した一三に、人々は驚き、また嘲ったという。  しかし一三は述べている。 「私たちの理想である、清く、正しく、美しく、御家族打連れてお遊びの出来る朗らかな娯楽地域を、国民大衆に捧げることは、『食ふものは働かざるべからず』『働くものは憩はざるべからず』『慰安は生活の要素也』といふ主意からも必要であると信じ、ここに隅田川の東、本所、深川両区は最近異常な発展をなし、将来益々発展すべき産業日本の原動力となる工業地帯、そしてここに働く人々、その家族達、それから市川、船橋、千葉方面に住む人々の為にも、丸ノ内の有楽街の様に、清く朗らかな娯楽場が必要になって来たことに思ひ至りまして、当会社の設立を決心した次第であります。」

1893年 渋澤栄一の演説に感服

1893年 渋澤栄一の演説に感服

東急・東電・政務

 1893年、20歳の小林一三は、三井銀行東京本店に入行し、秘書課に配属される。 「その頃の三井家には、三井仮評議会といふ最高機関があって、毎週一回、三階の広間で開会した。三井家から本家三井八郎右衛門、銀行は三井高保社長と中上川専務、鉱山会社から三井三郎助社長と益田氏、外部から渋澤栄一。三野村利助、駿河台の西村虎四郎氏であった。」(「六 その頃の三井銀行」『逸翁自叙伝』)  一三は、秘書課員として書類の遣り取りのお使い役や、お茶やお弁当を手配する給仕などから、同会の裏方を務めていた。  その1893年、商法の発布にともなう組織改革が、当時、三井銀行及び同財閥の経営を任されていた中上川彦次郎から提案される。その原案は、私盟会社三井銀行を「合資会社三井銀行」とすることであったという。  すると、渋澤栄一が「そもそも我国の商法は」と席上で演説を始めた。給仕の腰掛に控えて居た一三は「私は渋滞栄一氏の堂々たる議論を拝聴して驚いた。」と記している。 「議論明快、実に素人にわかりやすく、恐らくこれは三井家の主人一同に理解せしむるのを目的としたからであらう。私は成程。さもあらんかと敬服した。