1921年 東急の創業に参画

東急・東電・政務
1923年 玉川付近を視察。一番左が五島慶太。右から5人目が小林一三。

 1918年、実業家の渋沢栄一らが理想的な住宅地「田園都市」の開発を目指し、田園都市株式会社を設立する。現在の東京都目黒区・品川区・大田区・世田谷区など45万坪を購入し、交通として荏原電気鉄道(後の目黒蒲田電鉄)を設立したが、なかなか経営が捗らない。そこで、大株主であった第一生命保険社長の矢野恒太が、小林一三に田園都市株式会社の指導を依頼した。

 一三は、月一度上京し、同社の経営会議で意見したが、やはり実務を進めてくれる人物が欲しい。そこで、鉄道院出身で、自身でも武蔵電気鉄道(現、東急東横線)を開業しようとしていた五島慶太に参加を乞う。「どうも今の重役は僕の意見を実行する力が乏しいようであるから、君が一つ田園都市会社に入って僕のいう通り実行してくれないか」(五島慶太『七十年の人生』要書房、1953年)また、荏原鉄道をさきに敷設し、田園都市会社の45万坪の土地を売り、その利益で武蔵電鉄をやれば良いと説かれて、五島も了承した。

 1922年、目黒蒲田電鉄株式会社を創立し、五島が専務取締役となる。目蒲線・大井町線・東横線が順次開通し、池上線も合併。関東大震災後の時期と重なって、玉川・調布方面の宅地には、都心からの人々が次々と移住した。