1893年 渋澤栄一の演説に感服

東急・東電・政務
1893年 大阪支店への転勤を命ずる辞令。「合名会社 三井銀行」とある。

 1893年、20歳の小林一三は、三井銀行東京本店に入行し、秘書課に配属される。
「その頃の三井家には、三井仮評議会といふ最高機関があって、毎週一回、三階の広間で開会した。三井家から本家三井八郎右衛門、銀行は三井高保社長と中上川専務、鉱山会社から三井三郎助社長と益田氏、外部から渋澤栄一。三野村利助、駿河台の西村虎四郎氏であった。」(「六 その頃の三井銀行」『逸翁自叙伝』)
 一三は、秘書課員として書類の遣り取りのお使い役や、お茶やお弁当を手配する給仕などから、同会の裏方を務めていた。
 その1893年、商法の発布にともなう組織改革が、当時、三井銀行及び同財閥の経営を任されていた中上川彦次郎から提案される。その原案は、私盟会社三井銀行を「合資会社三井銀行」とすることであったという。
 すると、渋澤栄一が「そもそも我国の商法は」と席上で演説を始めた。給仕の腰掛に控えて居た一三は「私は渋滞栄一氏の堂々たる議論を拝聴して驚いた。」と記している。
「議論明快、実に素人にわかりやすく、恐らくこれは三井家の主人一同に理解せしむるのを目的としたからであらう。私は成程。さもあらんかと敬服した。
 『日本の商法は三井、三菱といふ如き資本家の財産保護と、その運営による富国強兵を主眼として起草されたものである。若し三井銀行が合資会社組織によるものとせば、この商法には合名会社といふ条項を必要としないのである。三井家の如き十数家の資本とその保留蓄積から、ここに合名会社を必要としたのである。率直に言へば三菱を標的として合資会社、三井を標的として合名会社の条文が生れたのである』云々。
 外国の例をひいて、英国ではこれこれと原稿もなく、雄弁に説き去り、説き来る渋澤氏の名調子に驚いたのである。」
そして中上川は渋澤に謝意を述べて原案を訂正し、翌日には「合名会社三井銀行」として発表された、と一三は記す。
 このように、小林一三は渋澤栄一の生の声に接していた。故に後年、渋澤が開いた田園都市株式会社の仕事を、一三に手伝って欲しいと依頼が来た際には、一旦は阪急の仕事に差し障るからと断るのだが、結局、月に一度、東京に出て、同社の経営に加わることとした。こうして後に東急となる大会社の礎を固める事業に手を染めたのも、それが渋澤さんの仕事であることを、一三自身も承知していたからなのであろう。