1940年 近衛内閣で商工大臣となる

東急・東電・政務
1940年 第2次近衛内閣、親任式後の記念撮影。

 1927年、小林一三は、東京での仕事のために、東京市麹町区永田町に住まいを持った。偶然か、それは近衛家と背中合せの一邸であった。以来、時の近衞家当主、近衞文麿と小林一三との間に、公私に渡る交流が続いた。
 1940年、一三は「訪伊経済使節団」代表としてイタリアを訪れる。その帰途、シベリアを経由して中国大連から船に乗ると、そこへ「途中ヨリ飛行機ニテ至急お帰り願度し」と近衛文麿からの電報が届いた。門司に帰港すると飛行機で東京に向かい「霞山会館にて近衛公に面会、入閣を承諾、商工大臣、午後十時頃親任式」を済ませ、一三は第2次近衛内閣の商工大臣となった。
 商工省は現在の経済産業省に相当し、昭和前半に商工業の奨励・統制を担った機関。早速、一三は蘭領印度特派大使としてオランダ領東インド(現、インドネシア)に向かい、石油などの物資供給が確保されるよう交渉を進めた(第2次日蘭会商)。けれども、オランダと協調体制を敷いていた英米による妨げで不調に終わる。一三はやむなく帰国し、近衛総理・松岡外相宛の報告書を取りまとめた。
 後1945年、戦争責任を問われた近衛文麿は、12月、服毒自殺を遂げる。知らせを耳にした小林一三は、公務を終えると直ぐさま近衛の荻外荘を訪れた。その日記には
「奥の日本座敷の書斎に白羽二重の蓐に上向きになつて横はつて永久の眠に入る、顔色蒼青たれ共、泰然として平素の面影を失はず。」
と記される。また
「昨日正午公爵にお眼にかゝり、数十分お話を承はり御元気の御様子を拝して、今日しも幽明其境を異にする夢の如き幻世を思ふ時、涙のにじみ出つるを禁じ得ないのである。」
と述懐される。