1949年 初代国鉄総裁への就任を乞われる

東急・東電・政務

 戦後、帝人の社長としてカリスマ的な経営手腕を発揮した大屋晋三は、第2次・第3次吉田内閣でも重用された。運輸相在任中の1949年には「日本国有鉄道」が発足する。
 同年4月、小林一三の『日記』には、大屋運輸大臣の特使が「私に今度新に発足すべき国有鉄道会社の総裁になつてほしい」との書状を持ってきたと見える。一三は、老齢等を理由に辞退する事とした。しかし懇意にしていた吉田茂への慮りもあって、ひとまず
「創立を急ぐ為め一時私が必要ならば、総裁でも監理委員でも、観板的に利用することは一に吉田首相のお心次第で異議はありません」
との返事を認めた。写真は、一三による返書の下書き冒頭の1枚である。
 5月、慶應・三井の先輩で政財界のとりまとめ役でもあった池田成彬を大磯に訪問すると「吉田総理大臣本日の閣議を欠席されて来訪」があり、会談の結果、日本国有鉄道の総裁を「どうしてもお引受けをしなくてはならぬ運命になつた」という。
 ところが、同時に公職追放の解除を願い出ていた小林一三だが、その許しがなかなか得られない。解除がないとなれば、国鉄総裁の話も打ち切りとなる。結局、一三の追放解除を、大屋晋三がGHQ民政局長コートニー・ホイットニーに掛け合ってみたが、再考を求められたという(大屋晋三「小林さんと私」『小林一三翁の追想』)。6月1日から発足する日本国有鉄道の総裁は、運輸次官であった下山定則に決まった。
 そして続く7月に惹起したのが所謂「下山事件」である。ニュースに接した一三は慄然とした。
「政府計画通り私の追放が許されて六月一日初代総裁に就任して居つたとせば私が此運命に陥入つて居つたかも知れない。『何といふ運のよいことでせう』と病中の家内は述懐せられて、涙ぐんで同情した。実に然り、私なぞは下山氏より尚一層反感を受ける人柄に出来て居るから家内がそう思ふのも無理はないと思つた。」