1939年 日本軽金属を設立
東急・東電・政務

東京電燈の課題は、余剰電力をいかに消費するかであった。一三は化学肥料の生産が大量に電力を消費すると聞き、1928年、鈴木三郎助(味の素の創設者)に肥料工業の立ち上げを持ちかけ、昭和肥料(株)が設立される。経営に当たった森矗昶は、1934年、国産アルミニウムの生産にも成功し、配下に日本電気工業株式会社を起す。1939年には昭和肥料・日本電気工業を合併し、昭和電工株式会社を設立した。
また「ロシヤにはドニエプルの大発電所というものが出来た。」(「ドニエプルの着想」『私の行き方』)と知った小林一三は、1935年の訪欧の途次、ウクライナを訪れた。当時はソビエト連邦の一部であったが、今はウクライナ語でドニプロ川の水力発電所と呼ばれる。「レニングラードから一万トンのアルミニュームエ場を移してドニエプルエ業地帯というものを作った着想とか観念は、非常に面白いものだ」と一三は記す。
アルミニウム製錬に多量の電力が必要と知った一三は「日本へ帰ってその構想をすぐに東京電燈で僕はやった。」山梨県人であった一三は、甲府盆地を南流して静岡の駿河湾に入る富士川に目を付けた。先ず山梨県身延町の波木井に発電所を設け、下流にある静岡市の蒲原に工場を造り、1940年、アルミニウムの製錬を始める。これが日本軽金属株式会社となる。東京電燈が電力を供給し、古河電気工業が製錬技術を担い、そしてその初代社長に小林一三が就いた。一三がウクライナで得た想いとは、有用な電力を産み出すことで社会を豊かにしたい、という願いだった。