1945年 戦災復興を指揮

東急・東電・政務
1945年 戦災復興院総裁を仰せ付けらる。

 1945年、太平洋戦争の空襲によって、日本全国の主要都市は壊滅的な被害を受けた。終戦から約2ヵ月後、幣原喜重郎内閣は「戦災復興院」を設置して、小林一三を初代総裁に据える。
 復興院が柱とした事業案は、内務省の主導により理想的な都市計画の実現を目指すものであった。しかし小林一三は、それぞれの都市の特色を活かした復興を指示し、さらには被災した人々の住宅問題を大きく掲げた。この年の年末「戦災地復興計画基本方針」が閣議決定され、早速各都市で復興計画への取り組みが始まる。ところが一三は、戦前の第2次近衛内閣で閣僚に就いていたため、1946年、公職を追われることとなった。戦災復興院総裁の職も、志半ばにして辞任のやむなきに至った。
 戦災復興院の総裁職を経たことで、小林一三は一つの戦後復興のシナリオを思い描いていた。一三は1946年の著書『復興と次に来るもの』(「国土計画と観光施設」)の中で、文化国家として日本を形づくる夢を語っている。「そして欧米諸国の人達をして家族的団欒の旅行としては日本をその天国たらしむることである。」文化国家として観光立国することを、世界に対する日本の復権の道と考えていた。まさに現代の、欧米の人々による日本文化への関心の高まりを知ったら、一三はまた何か新たな観光ビジネスを始め出すかも知れない。