1940年 岸信介と対立
東急・東電・政務

1940年、第二次近衛内閣で小林一三が商工大臣に就任すると、その次官には岸信介が前内閣より留任した。
その年提出された経済新体制案に対しては、財界人たちから非難の声が上がる。財界は「重要産業統制団体懇親会」を結成して小林商工大臣を支え、経済界の自主統制を主張する。これに対して企画院を中心とする軍部は、経済新体制として、所有と経営との分離による重要産業の国営化や、統制団体の役員を政府による任命制とするなど、私企業に対する官僚統制を強めた。この基本政策の食い違いから、経済新体制案に猛烈に反発したのが財界代表の小林一三であり、企画院案実施の先鋒が革新官僚のエース、岸信介であった。
1941年、企画院の官僚数人が逮捕される事件が起こり、岸次官は辞職することとなる。一方一三も、ブレーンであった一般人に政策への意見を求めたことが「機密漏洩」として取り沙汰され、結局商工相を辞任する。この時一三は、雑誌に「大臣落第記」を寄稿して心情を吐露している。
小林一三と岸信介との対立は、一般に自由主義経済と統制経済との争いとして説かれるが、岸自身はそうとばかり捉えていた訳ではなかった。
「小林さんという人はわれわれみたいな官僚とは、違つた感覚を持つていた。」(「わが政争史」『特集文芸春秋 今こそ言う』文芸春秋新社、1957年4月)
「純粋の民間人として、事業の鬼と言われる人だろう。そういう人が来たんだから、合わんというのが、根本ですよ。」
つまり、個人の信条の違いであったという。