1939年 日本発送電が設立される

東急・東電・政務
1939年 電力業界の行く末を見つめる。

 小林一三は、1935年の講演記録「来たるべき電力事業経営」(『次に来るもの』)の中で次のように述べている。
「およそ電力事業の中でも水力事業といふがごとき国家百年の大計と終始すべき性質のものは、必ずしもその建設費に対する利潤のみを考へて事業化するといふことよりも、道路または港湾のごとく、一国産業の基礎工程に処して必要欠くべからざる設備の一つとして考へて見る時代が来たのではないかと思はれます。」
電源開発は営利事業などではなくて、道路や港湾と同様、国の産業基盤として重要なのだ、というのである。
 1937年、逓信省臨時電力調査会で、小林一三は五大電力会社代表として電力統制案を提出。軍事色が強くなるにつれ、電力事業も国家による統制が望まれていた。翌年「国家総動員法」とともに「電力管理法」などが制定される。一三は、すべての電力を管理する日本発送電株式会社の設立委員となる。また財団法人東電電気実験所(現、公益財団法人東電記念財団)を設立した。
 1939年には、国策企業の日本発送電株式会社が設立され、一三は理事となる。また遞信大臣の諮問機関、中央電力調整委員会の委員を務める。その年「配電統制令」が発布され、1発電9配電体制が確立。1942年、関東配電株式会社の創立により、東京電燈は解散する。
 専ら民活の人であった一三が、経済新体制そのものには反発しながらも、電力の統制に関与していったのは不思議なことのように思える。これは電力を産業全般の基盤となるものとして捉えていたからに他ならない。