1928年 東電電球株式会社を設立

東急・東電・政務
1938年 東京電燈重役室での小林一三

 東京電燈の経営立て直しを請われて同社の取締役となった小林一三。その後、副社長・社長・会長として、同社の合理化に辣腕を振るう。配下で営業課長となった福田豊に対しては、一三は次のように諭したという(「故小林逸翁先生をしのぶ」『小林一三翁の追想』)。
  元来、東電という会社は、商売下手だ。お客が店頭に来ても、「ありがとうございます」という言葉が出ない。ソレカとて、「そういえ」といって見ても、決して出るものではない。
ソレが出易いようにするには、電球とか、電気器具とか、いろいろ商品を店先に並べてこれを売る。お客に商品を渡し、お金を受け取るときに「毎度ありがとうございます」といわせる。いわない者は場所替えをする、というようにせよ。かようにすれば、電気も余計に売れて、一挙両得だ
 そこで先ず1928年、東京電燈系の東電電球株式会社が設立され、その後各種電気器具の製造や販売部門と合併して、1939年、東光電気株式会社(現在の東光高岳)が生まれた。
  日本の家庭に向く様な、便利なもの──ごはんたき、みそ汁なべ、魚やき等──を易く、品質よく作ること。この製造経営で欠損が出ても差し支えないではないか
こうした小林一三の細やかな指導によって「役人型の東電も商人風に変貌した」と福田豊は感嘆する。
 この後、1942年、戦時体制から東京電燈が関東配電へ吸収されると、福田は製造事業の運営を任される。同年、一三は福田の来阪を促し、池田の自邸へと呼び寄せた。その時、福田とともに招かれたのが、松下幸之助夫妻であった。一三は、一同に薄茶と懐石とを手ずから振る舞った。無論、業界の雄である松下に、福田を紹介する機会としたのである。