1952年 電源開発株式会社が発足

1951年、現在の9電力会社(沖縄を入れ10社)がそれぞれスタートする。けれども各社は資本的にも貧弱で、必要な電力を満足に供給することもままならない有り様。そこで1952年、国内の電力安定供給のため、電源開発株式会社が国の特殊会社として発足。水力や火力の大規模な発電所の建設などから、高度経済成長を下支えした。
その電源開発の初代総裁として大きな仕事を任されたのが高碕達之助であった。1952年の『小林一三日記』には、一三が避暑で滞在していた六甲山ホテルに、高碕の使いが訪れたと記す。「東京より高碕達之助君特便を持つて今村秘書わざわざ登山、書状によれば首相代理白洲[次郎]君来訪、発電総裁を引受けてほしい、どうすべき、といふ相談である。」この時、白洲次郎は東北電力の会長であった。一三は、恩義があった吉田茂の政策であることを慮り「一つ吉田首相を助ける意味に於て、高碕君は犠牲となつて、一先づ、会社設立の出来るやうに総裁を引受けてほしい」と高碕に返事をした。
翌年には「高碕、白洲両君来る、只見川の発電所の件なり。東電・東北両会社の視察を聞く、両社及び高碕君は私の仲裁を希望すとの事。白洲のゴーインに高碕君もへいこうの様子なり」白洲の「強引」に高碕も「閉口」の様子という。そこでこの件については一三自ら東京に出向くなど、一三も助力を惜しまなかった。
その後、高碕が電源開発総裁の辞任を言い出すと、一三は「何といつても日本の発電事業の行方を現在の如く公明正大に猛進する事は高碕君でなければ出来ないのであるから此仕事を政党人や官僚の連中に渡すことは国家のために不利益だから辛棒してほしい」と強調し、高碕をなだめた。高碕も、もう一年頑張ることを覚悟する。こうして高碕が中心となって確立された電力体制が、戦後の経済復興を進める底力となっていった。