1926年 小林一三、第一生命の監査役となる

東急・東電・政務
1930年 第一生命保険相互会社からの重役会議開催の案内状。

 「田園都市株式会社」の社長に就いてくれるよう、矢野恒太から懇請された小林一三は、当初は阪急を本業としてこれを拒んだ。しかし断っての願いを受け、一三は名前も出さずに無報酬で、月に一度だけ土曜の夜行で大阪を発って日曜の経営会議に出ることとした。この様子を見ていた矢野に、以下のように配慮があったことを『矢野恒太伝』(「田園都市事業に携わる」)が伝える。
   小林は田園都市に関係したが無報酬であった。これを気の毒に思い又小林の手腕、識見を買っていた恒太は、小林に第一生命の監査役を引受けて貰った。それは大正十五年十一月のことである。
   小林の述懐によれば、当時、第一生命の重役になることは名誉だったという。第一生命が日本橋の紳商と組んでいたことは屡々述べたが、小林は田園都市─恒太─第一生命を通じて東京の一流財界人とのコネクションが出来た。後年、小林が東京電灯入りをするようになったのもこれらのことが土台となって東京の実業界に出たからだと小林はいつもそれを感謝していた。
 渋沢栄一の事業を軌道に乗せた小林一三の活躍を、世間は見ていた。そして財界から政界から次々と声がかかる。一三自身も自らの仕事の舞台を東京に広げることを忘れなかった。1934年「東京宝塚劇場」を開場し、これが1943年の「東宝」誕生へと繋がっていく。