1935年 吉本興業と提携
東宝・宝塚歌劇

吉本興業創業者、吉本せいは、吉本吉兵衛と結婚し「吉本興行部」を設立するが、1924年、夫が亡くなってからは実弟の林正之助を片腕に事業を拡大。1932年「吉本興業合名会社」に改組し、東京支社も起ち上げる。以降、大阪吉本を林正之助が、東京吉本を次弟の林弘高が率い、姉の吉本せいが大芸能プロダクションの社長となって両者をまとめた。
東京では1935年、東宝の前身の一つP・C・L映画製作所と提携し、吉本興業は映画制作に乗り出す。翌年には東宝映画配給と提携するなど、吉本興業と東宝とが接近した。そうした1938年には江東楽天地に吉本興業の経営による江東花月劇場が開場し、落語・漫才・曲芸などの大衆演芸場となる。そして1939年、吉本の林正之助が、一三に乞われて東宝の取締役に就任。そして1941年には、吉本興業とともに東宝演芸を設立した。吉本と東宝との密な連絡は、興行界における松竹との対抗に狙いがあった。
戦後の1948年、吉本興業株式会社に改組して会長に吉本せいが就任。しかし1950年の春、吉本せいはこの世を去る。一三は日記に
天王寺本坊に於ける吉本セイ女の葬式にゆく。トテモ派手な、立派な葬式であつた。
と記す。