1935年 古川緑波一座の登場
東宝・宝塚歌劇

早稲田大学在学中から菊池寛に認められ、文藝春秋社で雑誌『映画時代』の編集に就く。芸達者な一面も知られ、菊池や小林一三の勧めで舞台に上がる。1932年、宝塚中劇場での正月公演『世界のメロデイー』に初登場。フィナーレで花吹雪の大階段を歌いながら降りる、破格の演出を受けた。
1935年、有楽座が開場すると「東宝ヴァラエテイ・古川緑波一座」を立ち上げて座長となる。狂言『ガラマサどん』などの上演で、新しい都会的な喜劇のジャンルを開拓して大評判となった。
1936年3月のロッパの日記には日劇での興行が連日大入りとなり
日本の東京、その真ん中の東洋一の大劇場を、満員にしてセンセーションを起してゐるのだ。死んでもいゝ、死んでも本望―此の上何を望むべきか、といふ気持ちである。神も仏も護らせたまふ、幸せな僕であると絶好調を自負した。
1937年には、小林一三夫妻の仲人により、ロッパの結婚式が東京会館で挙行された。人気を反映して来会者数百名といい、ロッパは「お辞儀ばかり何百回としたので、へとへとになったそうだが
四時迄、づーっと小林氏がゐて呉れて、実によくして呉れた。
と、一三の温情を喜んでいる。