1937年 錦糸町に楽天地を開く

かつて東京市本所区錦糸堀(現、錦糸町)には汽車製造合資会社(現、川崎重工業)の工場があったが、それが1931年に移転すると、東京錦糸町駅前の跡地8000坪が空き地のままとなっていた。小林一三は「東京下町の大衆に健全な娯楽を提供」しようと、1937年、株式会社江東楽天地を創設、そこに総合レジャー施設を建設する。汽車会社に象徴されるようにその頃の錦糸町は工場地帯であり、駅前であっても淋しい場末の雰囲気が漂う有り様。そんな場所に突如として一大娯楽郷を造ると言い出した一三に、人々は驚き、また嘲ったという。
しかし一三は述べている。
「私たちの理想である、清く、正しく、美しく、御家族打連れてお遊びの出来る朗らかな娯楽地域を、国民大衆に捧げることは、『食ふものは働かざるべからず』『働くものは憩はざるべからず』『慰安は生活の要素也』といふ主意からも必要であると信じ、ここに隅田川の東、本所、深川両区は最近異常な発展をなし、将来益々発展すべき産業日本の原動力となる工業地帯、そしてここに働く人々、その家族達、それから市川、船橋、千葉方面に住む人々の為にも、丸ノ内の有楽街の様に、清く朗らかな娯楽場が必要になって来たことに思ひ至りまして、当会社の設立を決心した次第であります。」
先ず1937年に東宝系の映画館などをオープンさせ、中核施設となる江東劇場と本所映画館とが開館。鉄筋コンクリート建て、全館冷暖房完備、定員1500人収容の大劇場だった。翌年には、吉本興業の経営による江東花月劇場が開場し、落語・漫才・曲芸などの大衆演芸場となる。さらに須田町食堂(現、株式会社聚楽)の大食堂、そしてスポーツランドや遊園地なども開業した。1939年にはローラースケート場などが開業、次の年には敷地内に江東観世音が建立され、浅草と肩を並べる遊楽地として賑わった。
小林一三は、丸の内のアミューズメントセンターに対するべく、工場地帯の楽天地を造ろうと、スケールの大きな視野を持っていたのである。