1956年 新宿コマ劇場を開場
東宝・宝塚歌劇

1945年、東京都の都市計画課長であった石川栄耀は、戦後東京の復興策として、復興計画概要案を立案した。
同年11月、戦災復興院総裁となっていた小林一三は、石川の説明を聞いて
「東京都を十五、六区に縮小し、各区の周囲はグリーンベルトに色彩し大道路にてつなぐ、人口は三百万人を標準とする。都の周囲に八王子、川越、浦和、□の台と言つたやうな八つの衛星都市を育成せしむ、国際飛行場百万坪を海岸に埋立てる云々。」
と日記に残す。
後日「内閣にて東京都設計に対する石川君の説明があつて復興院の連中も大分集まつた。」
と見える。石川の意見を政局内に伝えたのは一三であった。
その石川栄耀が、新宿角筈一丁目に復興協力会を結成した鈴木喜兵衛らの要望を耳にする。焼け野原になった住宅地を繁華街にしたい。石川は一帯を区画整理し、浅草や銀座とともに新東京の中心の一つとなる、健全な娯楽センターを造る計画案を立てた。その中核に歌舞伎劇場の誘致を目論んだ石川は、町名の変更に「歌舞伎町」の名を提案する。こうして1946年、歌舞伎町が誕生した。
小林一三も地元の期待に応え、生涯最後となる新劇場の建設に着手する。1955年、東宝重役会で株式会社新宿コマスタジアムの新設を協議。翌年11月、大阪に「梅田コマ劇場」、12月には歌舞伎町に「新宿コマ劇場」を開場した。