1938年 長谷川一夫、東宝映画で銀幕に復帰
東宝・宝塚歌劇

林長二郎の芸名で歌舞伎界から松竹に入り、時代劇の二枚目スターとして名を売る。しかし新しい世界で再出発を、と東宝での映画出演を内諾した。
ところが1937年、東宝への移籍後、暴漢に顔を斬られる不祥事に遭う。さらにそれまで名乗っていた芸名「林長二郎」の返上を求められた。この時、小林一三が言葉をかけた
「東宝は、林長二郎の名前と今後を誓ったのではないよ。人そのものと誓い合ったのだ」
長谷川は「傷心のどん底に打ち沈んでいた私は、感動のあまり声を上げて泣いた」そして「私の体内に新しい希望と闘志が湧き上がってきた」という。
「俳優の生命というべき顔を傷つけられ、芸名を失った私が、どうしてあの逆境の中から立ち上がれたでしょうか。この闘志こそ、先生が私に与えて下さった何よりの賜物だったのです。」
1938年の『藤十郎の恋』で銀幕に復帰し、二枚目スターに返り咲く。同年の『鶴八鶴次郎』では山田五十鈴とコンビを組んでヒットとなる。
後年、映画界を退いた長谷川一夫は、舞台に専念。1955年からは東宝歌舞伎の座長となって公演を主宰。東京宝塚劇場に、二代目中村扇雀、十七代目中村勘三郎、六代目中村歌右衛門らが出演した。
そして1974年には、宝塚歌劇『ベルサイユのばら』初演での演出に、長谷川が演技や所作を指導。小林一三への恩義を果たす思いがあったに違いない。