1938年 後楽園球場を經營

東宝・宝塚歌劇
1954年 1951年に建てられた後楽園アイスパレスで、宝塚歌劇団・東宝主催「宝塚アイス・レビュウ第一回公演」が催されたのも、戦前のご縁から。

 1936年、プロ野球のリーグ戦が始まると、東京にも専用の野球場の開設が求められた。神宮球場は専ら大学野球に充てられていたからだ。そこで正力松太郎や小林一三らの出資で、株式会社後楽園スタヂアム(現、株式会社東京ドーム)を設立する。一三は正力とともに相談役に推挙された。また会長や専務には、一三の異母弟であった田邊七六・田邊宗英が就いた。そして翌年、後楽園球場が開場し、東京でのゲームの拠点となる。これより読売ジャイアンツは、後楽園球場を実質的な本拠地とした。
 さらに1938年には、小林一三が全株式の過半数を取得して、後楽園スタヂアムを東京宝塚劇場(現、東宝株式会社)の傘下に置く。会長に渋沢秀雄、社長に吉岡重三郎、専務には秦豊吉など東宝の重役が選任された。
 東宝は演劇映画以外、運動競技の方面にも、新たに手を染める。以降、オフシーズンの球場の利用に、サーカスなど多角的なイベント経営力が活かされた。同スタヂアムを活用し、運動競技以外にも諸種の演芸映画などの大会を多く催して、東京都民の健全慰楽に寄与することとなった。
 戦後1949年、持株会社整理委員会の指令により、東宝は後楽園スタヂアムの株式を売却し、経営から撤退する。正力松太郎は1951年から取締役として参画し、翌年設立した日本テレビ放送網によるスポーツ中継などから後楽園球場周辺を活性化させた。