1943年 「東宝」の誕生
東宝・宝塚歌劇

1943年、東京宝塚劇場は創業満10年を迎えるが、またこの年は画期的発展を見る年となった。株式会社東京宝塚劇場と東宝映画株式会社とが合併し、東宝株式会社となる。合併によって、両社が保有する映画製作・劇場・劇団やこれらの人材並に技術の交流などから、その活動範囲がますます広くなると期待された。こうして映画の製作・配給・興行と、演劇の興行とを総合的に一貫経営する「東宝」が、さらに一層強力な文化機関となって誕生した。
初代会長には渋沢秀雄、社長には大澤善夫が就き、合併記念式を帝国劇場で挙行する。渋沢秀雄は渋沢栄一の四男。小林一三が渋沢栄一の田園都市株式会社の経営を預かった際、一三の仕事を補佐して信頼を得、1938年に東京宝塚劇場の会長に任じられていた。またJ・O・スタヂオの創立者であった大澤善夫は、東宝映画で専務取締役を務めていた。小林一三は日記で「此若い紳士は我等のグループ中のピカ一である。私は彼が社長である間は東宝の前途を楽観する。」と大澤のことを評している。
ところが1944年、第一次決戦非常措置令により大都市の高級興行が一斉閉鎖を命ぜられる。東京宝塚劇場・有楽座・日劇・帝劇も閉鎖されるという苦しい時期を迎えた。東宝は、戦時下で奮闘する人々に向けて、心の糧となる潤いある芸能を製作提供しようと心掛けた。