1953年 ミヤコ蝶々を絶賛

東宝・宝塚歌劇
1956年 宝塚新芸座ポスター。『蝶々・雄二の夫婦ぜんざい』他

 1950年、小林一三はモダンな新しい演芸を創ろうと宝塚新芸座道場を創設する。翌年からは秋田實がプロデューサーとなり、夢路いとし・喜味こいしら新人漫才師が加わった。その後「宝塚新芸座」と名乗って、宝塚ばかりでなく梅田映画劇場にも進出する。
 1953年からは、秋田のニュースタイルコメディ『漫才学校』が始まり、大好評を博す。ミヤコ蝶々・南都雄二も参加し、新しい笑いに取り組んだ。小林一三も日記で
「三番目「春霞さくら街道」は馬鹿馬鹿しくて面白い、蝶々といふ女優がウマイので正に天下一品といふべしである。新芸座が此女優をウマク使ひこなせば難有い─と期待する。」
とミヤコ蝶々を絶賛する。
 この年、宝塚新芸座が帝国劇場に初めて出演する。「東京というところは、エテシテ上方芸風を軽視するから」と心配する一三の言葉も『おもひつ記』に見える。そして、時々東上することも悪くはないがとしながらも、一三は、
「新芸座劇場に立て籠って毎月続演に精進することを希望する。私の夢は五年先である。五年先の映画界、テレビ界は、新しいこの種の芸術に革命的変化を来すものと信じている。我々の持つ特色は、舞台人としての芸の力である。」
と将来テレビでの活躍を予見して、今は精進を呼びかけた。
 大阪では1954年から新芸座のメンバーによる『漫才学校』が朝日放送(ABC)で始まる。ミヤコ蝶々が校長で、南都雄二が用務員、いとし・こいしら漫才師や俳優達が生徒役。掛け合いや大喜利を基調とするストーリーと、ミュージカル的な歌のパートとから成るバラエティ番組。毎週放送されて高視聴率を得た。劇場公演を公開録音する方式を採り、開演前は客が劇場を取り巻く人気であったという。そしてこの番組で頭角を現したのが森光子で、後に東宝と専属契約を結んで上京する。