1951年 越路吹雪、宝塚を退団して東宝の専属スターに
東宝・宝塚歌劇

1951年、宝塚歌劇団在団中の越路吹雪は、帝国劇場での舞台『モルガンお雪』で古川ロッパの相手を好演し、国産ミュージカル女優第一号と呼ばれる。小林一三も
「帝劇コミツクオペラ第一回公演を見る。秦[豊吉]君の此計画はウマくゆくと思ふ。」
と日記に記す。しかし第二回帝劇ミュージックオペラ『マダム貞奴』では「越路吹雪は日本踊が拙づい」などと、厳しい批評も忘れない。この後、越路は宝塚歌劇団を退団し、東宝の専属スター女優となった。
さらに翌年、帝劇の『天一と天勝』を一三は観て
「越路吹雪は実にウマクなったものだ、これでは越路一座の帝劇といひ得るかもしれない。私は寧ろ越路を帝劇の専属俳優にして、結局帝劇は越路中心の劇場としてミユージカルシヨーを育て上げる時代が存外早く来るのではないかと思つた。」
と記す。
1953年、越路吹雪はフランスへ渡り、パリでエディット・ピアフのステージに大きな衝撃を受ける。翌年、帰国した越路の大阪での舞台を一三は観るが「誠に企劃の貧弱なるに驚く。」と嘆いている。
「私が企画をたてるならば「巴里土産越路吹雪のシヨー」と題をつけて高木[史朗]君の「シヤンソン・ド・パリ」的に彼女の巴里見物の物語から、四ツ五ツ唄はせる丈でもよい。」
「日本のシャンソンの女王」越路は「魅せる歌手」として、一三からも太鼓判を押された。