1952年 小林一三の「百館主義」

東宝・宝塚歌劇
1956年 東宝本社にて

 小林一三は1952年の外遊で、アメリカのテレビ放送の実状に触れた。その日記に
「私は最後はTVがラヂオ、映画を塗つぶす、TV文化時代、TV芸術が、繁昌するに至るものと思ふ。」
と記し、テレビの繁栄を予見している。そして
「将来はわが東宝も現在のままでは駄目だ、新しい映画を上映しうるように、映画館も、撮影所も整備したい、そうして長期興行ができるような立派な映画を作っていきたい。テレヴィジョンの将来に善処しうるあらゆる施設を完備したい。この点になると、全国によい劇場のチェーンをもつという東宝の方針に変りはありません。」
と述べる。そこで一三が掲げたのが「百館主義」である。
「私は全国に優秀な映画館を百館もち、映画の製作費用はこれらの館への配給料で挙げてしまう。」
実際この後、1953年に大阪難波に南街劇場、1954年に上野東宝劇場・上野宝塚劇場、1955年には日劇地下に丸の内東宝劇場などを次々と開場させる。
「撮影所を整備し、近代的なものにし、長期興行のできるようなよい映画を作ると同時に、全国の優秀劇場には最新式の上映設備をなし、優秀洋画の上映と優秀邦画の長期上映ができるよう、興行部門をがっちりと確立したい」
そう意気込んだ小林一三の社長時代に、百館計画はほぼ達成された。