1954年 トニー谷、小林一三に芸を認められる

東宝・宝塚歌劇
1954年 トニー谷の楽屋を訪れる。

 現在の銀座に生を受けたトニー谷が、やがて東宝を舞台として芸人としての人生を花開かせるのは当然であった。1940年、第一ホテル(現、第一ホテル東京)に職を得て、戦後もアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)や日劇のステージに関わる。
 1951年には、帝劇ミュージカルズ『モルガンお雪』でエノケン、ロッパや越路吹雪と共演し、東宝専属の芸人となる。以降、日劇ミュージックホールで観客を沸かし、映画のスクリーンで大暴れした。
 1954年、小林一三は大阪梅田の北野劇場に出向いた。
「北野シヨー公演中のトニー谷、来る。十二時十分からトニー主演の「サイザンス・パリ」を見る。誠に面白いシヨーである。初日はトテモ下等で困つたといふ話で心配して居つたが、今日はそういふ下等の部分がカツトされて一時間充分に楽めた。これならばトニー劇団を作つて帝劇公演も可能だと思つた。丁度東京から来た秦社長が宝塚の新芸座を見物してゐるから、今夜行にて帰京する前に、一度此北野シヨーを見て貰ふようにたのむべしとおすゝめした。」
と日記に見える。「秦社長」とは、時の帝国劇場社長、秦豊吉。一三も、トニー谷の芸人としての力量を認めていた。
 小林一三は彼の楽屋を訪れた。そこには一三による労いの言葉もあったのであろう。役の扮装ながら一三の後に添うトニー谷の姿は、普段の様子と打って変わって神妙な面持ちに見える。
 その一方、無礼、破廉恥と、トニー谷の言動に対する世間からの避難の声も多く、絶頂期の人気は次第に陰っていった。