1917年 与謝野晶子が宝塚観劇

東宝・宝塚歌劇
1917年 与謝野晶子が詠歌を書した扇子。

 小林一三が才を見込んで支援した作家の一人に、与謝野晶子がいる。晶子と夫の鉄幹とは「歌行脚」と称して、しばしば各地を訪問した。1917年には、関西及び九州の各地に滞在する。この間、小林一三に招かれて、晶子は宝塚少女歌劇を観劇した。
公演が終わって、一三は用意していた扇子を差し出し、晶子に染筆を依頼する。
かろやかに夕月かゝるみそらより こしごと君はたゝずめるかな (『さくら草』所収歌)
写真の扇がこの時の品の一つである。
 また、この時に詠まれた歌三首
  宝塚にてよめる
  武庫川の板の橋をばぬらすなり かじかの声も月の光も
  夕かぜは浅瀬の波をしろく吹き 山をばおもき墨いろにふく
  かぜふけば夜の川波にはやがきの 文字かく灯かな湯のまちにして
が、後、宝塚歌劇団の機関誌『歌劇』創刊号(1918年)に掲載された。
 『歌劇』の初代編集長は小林一三で、初期には小出楢重・今東光・坪内逍遙・有島武郎・竹久夢二・正宗白鳥など文化人の寄稿が見られる文芸雑誌でもあった。1921年には「歌劇誌友大会」(後の愛読者大会)が開かれ、読者との交流が図られるなどもあって、宝塚少女歌劇の評判は全国へと広まっていった。