1946年 アーニイ・パイルの前に立ち

東宝・宝塚歌劇
1947年 小林一三宛、アーニー・パイル・シアター書類封筒

 1945年、連合国軍が進駐し、接収された東京宝塚劇場は「アーニー・パイル・シアター(Ernie Pyle Theatre)」と改称される。戦中に沖縄で亡くなった従軍記者アーニー・パイルは、ピューリッツァー賞を受賞したアメリカ人ジャーナリストであった。
 1946年、久しぶりに上京した小林一三の日記には「夜、旧東宝劇場のアーニイパイルの前に立つて感慨無量」と見え、その感慨を「アーニイ・パイルの前に立ちて」という一文に遺した。
「私は、「アーニイ・パイル」の横文字が、淡い、うす緑の五線紙型ネオンサインの色彩の中に明滅するのを、ジッと見詰めていた。眼がしらが熱くうるおいそめて、にじみ出して湧いてこぼれて来る涙を拭く気にもなれない。誰れも見て居らない、泣けるだけ泣いてやれ、という心持ちであったかもしれない。私は、頬のあたりまで持っていったハンカチを再び下げて、唇を押えたまま、暫らくジッと佇んで居ったのである。」
一三は、複雑な自身の胸の内を率直に記している。
「東西廻り階段の入口から、硝子戸を透して正面広間の紅い絨氈は、煌々と輝いている。軽い口笛と靴音と、ステップをそろえてのぼりゆく三々五々の米兵を限りなく吸い込むこの大劇場は――誰れが建てたのか、誰れでもないこのオレが建てたのだと、負惜しみのような、うぬ惚れのような、悲哀な快楽がムクムクと胸の底を突くと、心臓がいささか高なる、呼吸が迫るようになると、セセラめく微苦笑が浮んでくる。」
一三の忸怩(じくじ)たる思いが伝わってくる。
 やがて1952年、小林一三はアーニー・パイル・シアターの運営権を取り返し、本来の名称である東京宝塚劇場に戻すこととなった。