1937年 「帝劇」を傘下に

東宝・宝塚歌劇
1938年 帝国劇場(右)・東京會舘(中)。

 帝国劇場は、大倉喜八郎ら財界人の出資により、日本最初の本格的な洋式劇場として1911年に開場した。内外貴賓の来場も多く、専属俳優による歌舞伎や女優劇のほか、外国一流の芸術家による上演が高く評価された。しかし1923年の関東大震災による類焼後、営業は振るわず、1930年には松竹が経営する洋画の封切館へと転用されていた。
 1935年から翌年にかけて欧米を旅行した小林一三は、例えばパリのオペラ座のように一国を代表する文化センターがその首都に在ることに感心し、東京にもそうした施設が必要だと痛感した。
「日本においても、一つ位営利を離れて、社交の中心となる劇場が必要である。そうだ、日本に帰ったならば帝劇を買収して、高貴の御方や、貴顕紳士の社交場として、東京会館と相俟って、文化の殿堂を建設しよう。」
 1936年、帰国した一三は、帝国劇場株式会社の取締役に就任。翌年、同社を吸収合併し、帝国劇場と隣のレストラン宴会場「東京會館」とを東京宝塚劇場の傘下に収める。その後1940年、松竹による賃借期限の終了を俟って東宝直営とし、宝塚少女歌劇雪組の公演で再開場した。天津乙女の『船弁慶』他が演じられ、久しぶりに本来の演劇劇場に返り咲いた。
 小林一三には、帝劇と東京會館とに隣接して「八層高楼の帝劇会館」を建設し、国際的な文化・社交の中心となる一大施設を造る理想があった。けれども第二次世界大戦の激化とともに、その高邁な計画も掻き消えてしまった。