1918年 宝塚少女歌劇、初の東京公演

かねがね「東京で公演してはどうか」と文壇・劇壇の人たちからの勧めもあって、宝塚少女歌劇の東京進出を企てる機運が高まった。そこに1918年、東京で雑誌「新演芸」「新家庭」を発行していた玄文社の胆入りで、帝国劇場公演の話がまとまる。
東京初進出の帝国劇場での公演は、5曰間にわたり、次の演目を並べて幕を開けた。
『雛祭』 小林一三作、高木和夫作曲
『三人猟師』 久松一声作、安藤弘作曲
『ゴザムの市民』 加藤邦作、原田潤作曲
『羅浮仙』 楳茂都陸平作、原田潤作曲
『コサックの出陣』 獏与太平作、高木和夫作曲
『下界』 久松一声作、原田潤作曲
3日目からは
『桜大名』 久松一声作、安藤弘作曲
を加え、大いに喝采をうける。興行成績は上々、前売切符も売切れという盛況で、初曰からお客様お断り係が入用という、嬉しい悲鳴を上げるほどの歓迎を受けた。劇評では「清純なよい趣味が舞台全体を取りかこみ、舞台に立つ少女達がいかにも純粋な技芸に対する愛情をもって、いかにも嬉しそうに、いかにも張りつめて活躍していたことが、最も快感を起させた。」などと賞される。
生徒に同行した舞踊教師で作者の楳茂都陸平は、公演最終日の様子を日記に伝える。
「破れるような見物とは、まったくこの最終日の観客席の景況で、帝劇創立以来の大入りだということだ。
一幕ごとに記念の舞台面を撮影して、午後11時、めでたく閉演した。
のち、関係者一同は、銀座四丁目角のカフェー・ライオンに集まり、小林一三会長の催しで、玄文社一同の皆さんと訣別をあわせて、謝礼の宴が開かれた。満都の人気を一手ににぎった列席の面々は、じつにがいせん将軍の勝誇った双頬に、いいしれぬうれしさをみるようであった。」