1934年 小林一三の東宝広告作戦

東宝・宝塚歌劇
1934年 東京宝塚劇場の開場を知らせる広告。

 小林一三は、広告・宣伝の名手であった。
 その特色の第一は、新聞広告紙面の大量契約。小林一三は財界での信用をもって、各新聞社の広告欄を月単位で割安に契約した。東京宝塚劇場は開場後、一劇場としては考えられない程の物量宣伝を行った。
 第二は、毎日必ず新聞広告を出した。電通を通じ、東京の六大紙、朝日・毎日・読売・東京・時事・報知の朝刊・夕刊何れかに東宝の広告を掲載するよう仕組む。日本の広告史上、かつて無いことであった。
 第三は、東京宝塚劇場・東宝の広告イメージの統一。新聞広告の三方を五線譜枠で囲み、枠の無い左側に「大衆芸術の陣営」「家庭共楽の殿堂」の二行を並べ、その下に「東京宝塚劇場」と大書するレイアウトとした。後々にも踏襲され、ひと目で東宝の広告と分かるデザインとなった。
 第四は、全社員で広告文を書いた。広告部員ばかりでなく、支配人も書き、また有意の者は全員が書いた。よって、大量の広告であっても、一つとして同じ記事が無かった。しかも小林一三は、丹念に全ての記事に目を通し、赤鉛筆で批評を書き、良い広告には5円~20円の賞金額を付した。広く多くの人に演劇・映画を観てもらいたい、という一三の理念に適うよう、宣伝アピールのポイントが的確で費用対効果が高く、広告文自体も楽しめる記事を評価した。