1951年 映画黄金時代へ

東宝・宝塚歌劇
1952年 小林一三が持ち帰ったシネラマ社のパンフレット。

 製作面では、1951年、ニュース・短篇映画などの製作傍系会社として「株式会社日本映画新社」が誕生した。翌年には東京目黒に「東京映画株式会社」を新設し、東宝傘下のユニット・プロダクションとして稼働を始める。映画の製作は活発となり、作品の質も向上した。1952年には黒沢明監督の東宝復帰第1作『生きる』は芸術祭に参加し、文部大臣賞を受ける。
 また技術的にも進歩し、1953年にはオールカラーで撮影された最初の劇映画『花の中の娘たち』が封切られる。1954年にはコダック社のネガ・フィルムを使用したイーストマン・カラー作品、稲垣浩監督『宮本武蔵』が公開され、2年後にはアメリカのアカデミー賞選考で外国語映画賞のオスカーを獲得した。

 先立つ1952年、アメリカを旅行中の小林一三は、新たな映画のスクリーンに接する。日記に
「三方からカメラライト、どういふヒルムか知らないが舞台表に大きくパノラマ的に開展する、そこでシネラマと名付けたといふのである。」
また
「此シネラマの映画製作に及ぼす影響はトテモ素晴らしいものになると思ふ。」
と遺している。そして帰国すると、帝国劇場の舞台にシネラマ用巨大スクリーンを設置し、再び洋画ロードショーの映画館に転じた。
 そして1955年にはカラー映画の発展に備えて、東宝など関係各社が株式会社東京現像所を設立するなど、映画産業を支えるハード面の強化も着々と進められた。