1947年 宝塚歌劇、東京公演の再開
東宝・宝塚歌劇

戦後、東京宝塚劇場はGHQに接収されて「アーニー・パイル・シアター」となり、日本人は観客として立入禁止となっていた。そこで1947年、4年ぶりに宝塚歌劇の東京公演が復活したのは日本劇場においてであった。雪組・舞踊専科総出演にて、グランド・レビュー『ファイン・ロマンス』(内海重典)、舞踊『宝塚おどり絵』(内海重典 構成)が上演される。戦後頽廃した東京有楽町界隈に、明るい花を灯ともしたと喜ばれた。
その好評によって今度は花組が東上し『夏のおどり』(水田茂)、『センチメンタル・ジャーニイ』(康本晋史・高崎邦祐)を上演。越路吹雪のヴギウギ・パリがヒットして、新聞雑誌は競って彼女を紹介し、宝塚歌劇の復活を広く宣伝することができた。最後には月組が『マノン・レスコオ』(高崎邦祐・香村菊雄 脚本・演出)、『眞夏の夜の夢』(高崎邦祐 構成・演出)を上演してその年を終えた。
1949年には東京での年6回公演が実現し、星組が復活して10年ぶりに4組が揃う。
また1950年からは、帝国劇場を宝塚歌劇の常設公演場と定めて毎月の公演を復活した。その頃、帝劇の南隣の第一生命ビルに駐在していたGHQの米軍写真班員が、戦後日本の唯一のカラー写真対象として、常に帝劇の舞台を撮影していたという。当時2週間はかかったカラー現像を、3時間ほどで仕上げてプレゼントしてくれたとのエピソードも伝えられる。