1940年 山田耕筰、オペラ『夜明け』を上演

東宝・宝塚歌劇
1940年 日本楽劇協会公演、歌劇『夜明け』案内葉書。

 日本での西洋音楽の普及に功績があった山田耕筰。大正時代には、宝塚歌劇のオーケストラの指導に、顧問として迎えられていた。7年間程、タカラヅカに籍を置き、宝塚管弦楽団による定期演奏会のタクトも振った。
 1940年には3幕物の大規模なオペラ『夜明け』(後『黒船』と改題)を、日本人として初めて作曲する。幕末、伊豆下田に現れた黒船を題材とする作品で、アメリカ人パーシー・ノエルによる英語台本を、山田耕筰が手ずから日本語訳して曲を付けた。当初企画されたアメリカのシカゴ歌劇場での上演が調わず、東京宝塚劇場での作曲者の指揮・演出による初演となった。
 後に山田耕筰が、新しいオペラの創作について語った記事がある。
「東宝劇場の?落しに小林社長がお話をされた、将来の日本の国民劇という、それですよ。従来の歌舞伎があたらしい形態の下になったもの、です。」
さらに山田は「今までのオペラを頭に置かず、日本の新しい歌舞伎が生まれていい」そして「新しい演劇、舞踊、音楽を接合したものでなけりゃ国民劇は生まれません」とも述べている。
「ねらいは小林先生の仰言ってることと同じなのです。向うの国のオペラをやってても仕様がない...。」
と、小林一三の思いに共鳴していたのだ。