1936年 「日劇ダンシング・チーム」がデビュー

東宝・宝塚歌劇
1938年 京都宝塚劇場での日劇ダンシング・チーム公演チラシ。

 1936年、日本劇場專屬の舞踊団「日劇ダンシング・チーム(NDT)」がデビューする。日劇支配人となる秦豊吉の指揮の下、厳しいレッスンによって培われた群舞の舞台は整然たる迫力を見せた。日本に初めて真のダンシング・チーム現るの感を一般に抱かせ、同劇場の大いな魅力となつた。さらに『秋のおどり』では数人の歌手や喜劇人をゲストに迎え、舞踊団がフルに活躍するステージショーが大ヒット。小林一三も宝塚歌劇とはまた別形式のショーの成功として、製作者たちを労ったという。
 1937年、ロシアの帝室技芸員だったオリガ・サファイア(Olga Sapphire)を指導者に迎えてからは、古典バレエの演目も上演する。さらに、日本の詩情や生活を活かしたバレエを創りたいとの秦豊吉の願望から、日本の郷土舞踊の藝術化・舞台化に取り組んだ。同チームの製作スタッフが日本各地に飛び、郷土舞踊の振り・音楽・衣裳などを丹念に採集する。そして郷土舞踊を原形そのままに上演するのではなしに、整理し、改作して新しい日本の芸術舞踊を創り上げた。1939年の『琉球レビュウ』を手初めとして、チームが次々と見せた舞踊は初演ごとに好評を博し、その名声を高めた。
 1940年からは「東宝舞踊隊」と名乗り、東宝慰問隊の一団に参加して戦時下の国や地域を訪れ、1日数回の慰問公演を精力的にこなした。