1936年 吉屋信子を訪問

東宝・宝塚歌劇
1936年 吉屋信子の新邸を訪れて。

 1920年、吉屋信子は『地の果てまで』が新聞の懸賞小説に当選し、選者であった徳田秋声と知遇を得る。その徳田秋声を案内して宝塚少女歌劇の東京公演を見に行くと、幕間の廊下で小柄な老紳士が、秋声に声を掛けてきたという。それが小林一三であった。歌舞伎座での宝塚少女歌劇の東京公演は、1928-30年の間。1928年、吉屋信子は1年近く外遊しているので、この一三との出会いは1929年か1930年。
「それ以来、小林氏は私をその少女歌劇のPR用に利用(?)した。永田町の東京邸へ招いて当時のスター葦原邦子と対談というようなことがはじまり、やがて私は遠く宝塚にまで呼ばれて、お利口で美しいスター連に囲まれたり、その養成所の学校を参観させられた。そのお礼ごころかどうか、時々私の小説を読んだ批評を大阪の本邸雅俗山荘から寄せられたり、古代裂の袋入りの小さな古鏡などを贈られた。」(吉屋信子「小林一三」『大人の本棚 私の見た人』みすず書房、2010年)
 1936年、吉屋信子の新邸を小林一三が訪問する。吉田五十八の設計で市谷砂土原町に建てられた居宅だった。小説家の長谷川時雨による随筆に、一三が吉屋の家を絶讃した、という下りがある。
「私は、隨分澤山好い家を見てゐるが、その私が褒めるのだから、實際好い家なのだ。たいがいの家は、茶室好みか、もしくは待合式なのかだか、吉屋さんの家はいかにも女性の主人で外國の好いところも充分にとり入れてある」(「家」『文藝春秋』1938年6月)