小林一三による、東京での事業を、東宝・宝塚歌劇、ホテル・百貨店等、東急・東電・政務等の3つのテーマに分けて、 それぞれの事業の始まりや著名な人物との関わりを100トピックスで綴ります。
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1952年の『小林一三日記』には、 「いよいよ日米航空会社新設の願書を運輸省に提出す。パン・アメリカンといふ世界一の航空会社と京阪神電鉄(が五十一パーセント株式を持つ)との共同事業がスタートすることは誠に快心の壮挙だと嬉しいのである。今日午後二時東京と大阪とに於て同時に発表するから明日の新聞紙は相当に取上げるであらう。」 と見える。一三は、低廉なる料金と行き届いたサービスとで運航する、まさにお客様本位の「日米航空」の実現を目指していたのである。
1952年、アメリカで始まったテレビ放送が、今後日本でも東宝の映画興行などにどのように影響するか、関心が向けられた。そこで小林一三は、米欧諸国の現況を視察するべく外遊に出る。その旅行の様子は「米欧空の旅」と題する旅日記で知られる。 10月16日、午後1時半、羽田を離陸。 「フウワリとした座席に深く腰をおろして円窓から飛行場を眺むるとプロペラが徐ろに回転し初めた。やがて、急霰の如く激しく虹のやうに円をゑがいて機体は動き出した。豆人寸馬の下界を離れて、どの辺の海岸か、皆目見当がつかない、浜辺が見へなくなると、右手に富士山が見へますとアナウンスされた。雲をぬいて紺色の山霊が見へる、今、八千沢の高さに居るといふのである。」
1920年、大阪・梅田駅に日本で初めての駅ビル、阪急ビルディングが竣工する。5階建てビルには、1階に東京日本橋から白木屋百貨店を招致して白木屋梅田出張店が開店し、食料品や日用雑貨を販売した。また2階には、阪急直営の洋食専門「阪急食堂」を開設する。 白木屋の成功を引き継ぎ、1925年には阪急ビルの2~3階に自社直営の「阪急マーケット」を開業する。
坂野惇子たちが創業したファミリアは、1951年、大阪の阪急百貨店うめだ本店に初の直営店をオープンした。そして1956年、数寄屋橋の阪急百貨店に2つ目の直営店を出店する。「百貨店として使えるフロアは一階と地階の一部しかないので、百貨店というよりも、専門店風に、なにかの品種にしぼる必要がある。そこで商品構成は子供用品とジュニアの洋服にしぼり‘子供のデパート’でいこうと思う。それについて、東京のどこにもないファミリアのベビー子供用品をひとつの目玉商品に打ち出してみようと思う」との相談が阪急百貨店から持ちかけられた。(『ファミリア25年のあゆみ』ファミリア、1975年)
数寄屋橋のマツダビル(現在の東急プラザ銀座の場所にあった建物)は、東芝の前身の東京電気の本社として1934年に建てたビルであった。戦後、連合軍の接収から返還されてからも、東芝が所有していた。しかし、1949年、社長となって東芝再建に取り組んだ石坂泰三は、日本一の目抜き通り数寄屋橋のビルを、東芝の事務所として使うよりは百貨店などにして、もっと銀座の繁栄に寄与するものにしたい、という合理的な考えを持った。 1953年の『小林一三日記』に「東芝石坂社長岩下常務とスキヤ橋東芝販売店ビルを阪急百貨店にて貫受又ハ借受実行の出来るやう最後のお願をしたところ、大体我々の希望を入れてくれるので今度は東芝から条件を提出することになつた。」と見える。小林一三と石坂泰三とは、これ以前に第一生命で石坂が社長、一三が監査役として、知己の間柄であった。
鐘淵紡績(後のカネボウ)社長だった武藤絲治は、慶應義塾で学んだ後、留学を経て鐘紡の仕事に携わる。戦後の1947年、社長に就任するが、しかし当時の鐘紡は、敗戦や空襲で海外資産や国内外の工場を失い、また多方面にわたる事業整理などの課題を抱え、再建に努める苦しい状態が続いた。 一方、戦後、阪急電鉄から独立した阪急百貨店は順調に業績を伸ばし、社長の清水雅は企業規模の拡大を図ろうとしていた。早くから東京に支店を新設する計画をあたためており、1949年には東京連絡事務所も開設し、既に誘致の話も数件あった。そこで東京での開店候補地を様々検討したが、小林一三の許可が出るような物件になかなか巡り会えなかった。 鐘紡と阪急と、それぞれの経営事情から次のストーリーが生まれる。
小林一三は、ゆとりある生活をすることこそが大衆の理想の生活であると考え、より多くの人が楽しめるような仕組みを作ることに力を注ぎました。質を落とすことなくコストを抑える工夫をして、提供価格をできるだけ安く抑え、画期的な発想でさまざまな事業を成功へと導きます。