1953年 阪急百貨店大井店がオープン
ホテル・百貨店

鐘淵紡績(後のカネボウ)社長だった武藤絲治は、慶應義塾で学んだ後、留学を経て鐘紡の仕事に携わる。戦後の1947年、社長に就任するが、しかし当時の鐘紡は、敗戦や空襲で海外資産や国内外の工場を失い、また多方面にわたる事業整理などの課題を抱え、再建に努める苦しい状態が続いた。
一方、戦後、阪急電鉄から独立した阪急百貨店は順調に業績を伸ばし、社長の清水雅は企業規模の拡大を図ろうとしていた。早くから東京に支店を新設する計画をあたためており、1949年には東京連絡事務所も開設し、既に誘致の話も数件あった。そこで東京での開店候補地を様々検討したが、小林一三の許可が出るような物件になかなか巡り会えなかった。
鐘紡と阪急と、それぞれの経営事情から次のストーリーが生まれる。
1953年、武藤絲治から小林一三に、国鉄(現、JR東日本)大井町駅前に鐘紡が所有するビルを使用してはと提案があった。この頃の東京大井町(品川区)は空襲で荒廃し、鐘紡が東京事務所として1939年に建てたビルも迷彩色が施されたまま、未だに戦後を色濃く残した状態だった。しかし大井町には国鉄大井町駅の他、東急大井町駅もあり、立地条件としては良かった。かつて小林一三も関わった東急沿線には住宅地が広がっていたこともあり、一三からも出店の許可が出た。
ついに鐘紡からビルの譲渡を受けて、全館の改装を終了し、白亜5階建ての阪急百貨店東京大井店(現、阪急百貨店 大井食品館)がオープンする。関西の百貨店として、戦後における東京進出第1号となったのである。