1956年 数寄屋橋阪急の開店

数寄屋橋のマツダビル(現在の東急プラザ銀座の場所にあった建物)は、東芝の前身の東京電気の本社として1934年に建てたビルであった。戦後、連合軍の接収から返還されてからも、東芝が所有していた。しかし、1949年、社長となって東芝再建に取り組んだ石坂泰三は、日本一の目抜き通り数寄屋橋のビルを、東芝の事務所として使うよりは百貨店などにして、もっと銀座の繁栄に寄与するものにしたい、という合理的な考えを持った。
1953年の『小林一三日記』に「東芝石坂社長岩下常務とスキヤ橋東芝販売店ビルを阪急百貨店にて貫受又ハ借受実行の出来るやう最後のお願をしたところ、大体我々の希望を入れてくれるので今度は東芝から条件を提出することになつた。」と見える。小林一三と石坂泰三とは、これ以前に第一生命で石坂が社長、一三が監査役として、知己の間柄であった。
この後、阪急百貨店の社長、清水雅は石坂泰三から「あのビルは東芝発祥の地であるため全部は貸せないかも知れない。」と告げられる。実際、ビルの1階・地階に百貨店はテナントとして入居することとなった。
1956年、数寄屋橋阪急が開店し、念願であった東京都心への進出が銀座の一角に実現する。もともとオフィスビルとして造られたマツダビルは、百貨店向きの建物ではなかった。小林一三の日記には「一時すぎ数寄屋橋阪急を見る。中々ウマク施設されてゐるが如何にも狭いので可愛そうに思ふ。」とある。1階・地階を合わせて売場総面積1,485㎡という小規模ではあったが、それまでとは一転した明るく清々しい店構えが現れた。
開店に当たっては、話題づくりも兼ねてライオンの子供を陳列即売した。予想どおりマスコミがこれを大々的に取り上げ、数寄屋橋阪急の開店はテレビやニュース映画でも紹介された。銀座という土地柄の有利さを生かし、営業成績は順調に伸びていった。