1952年 小林一三、パンナム機で旅立つ

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1952年 パンアメリカン航空機に乗り込む。

 1952年、アメリカで始まったテレビ放送が、今後日本でも東宝の映画興行などにどのように影響するか、関心が向けられた。そこで小林一三は、米欧諸国の現況を視察するべく外遊に出る。その旅行の様子は「米欧空の旅」と題する旅日記で知られる。
 10月16日、午後1時半、羽田を離陸。
「フウワリとした座席に深く腰をおろして円窓から飛行場を眺むるとプロペラが徐ろに回転し初めた。やがて、急霰の如く激しく虹のやうに円をゑがいて機体は動き出した。豆人寸馬の下界を離れて、どの辺の海岸か、皆目見当がつかない、浜辺が見へなくなると、右手に富士山が見へますとアナウンスされた。雲をぬいて紺色の山霊が見へる、今、八千沢の高さに居るといふのである。」
 ウェーク島での休憩を挟んで、
「三時お茶、コーヒ、サンドウイツチ、ケーキ、[同行の次女、鳥井]春子は食べたくないと言つて居眠る。三時半スツカリ晴れてPAAと大きくマークされた、アルミの片袖に日光が輝く。五時暮色漸く迫る、膝頭が一寸寒い、円窓のカーテンを締る。」
そしてホノルルに着陸。ハワイ見物の後、ロサンゼルスへと飛び、ハリウッド各社を見学する。
 その後、ヨーロッパへもパンナム機で渡ったが、12月、日本への帰着には繰り合わせでノースウエスト機も経験した。一三は「空の旅」の感想から幾首かの歌を詠んでいるが、その内の一つでは、
「夜も昼も寝たり覚めたり飛行機に 乗れば食事のいそがしきかな」
と漏らしている。