1952年 航空会社の設立を画策
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1952年の『小林一三日記』には、
「いよいよ日米航空会社新設の願書を運輸省に提出す。パン・アメリカンといふ世界一の航空会社と京阪神電鉄(が五十一パーセント株式を持つ)との共同事業がスタートすることは誠に快心の壮挙だと嬉しいのである。今日午後二時東京と大阪とに於て同時に発表するから明日の新聞紙は相当に取上げるであらう。」
と見える。一三は、低廉なる料金と行き届いたサービスとで運航する、まさにお客様本位の「日米航空」の実現を目指していたのである。
そして翌年、吉田茂首相に呼び出されて官邸に赴いた際の様子を、
「最後に日米航空出願に対する石井[光次郎運輸]大臣との昨日の会談を申上げ、『どうも大臣は不認可の腹であるやうに思ひましたが』といふ私の想像を裏切つて、私が誤解であることをほのめかし、自分[吉田首相]は当然許可すべきものであることを石井君は了解してゐるはづだと言はれたので安心した。」
と記し、小林一三はすぐにも航空会社設立の許可が下りるものと思っていた。
ところが、航空輸送にはエア・カボタージュ(Cabotage) という制度が有った。国内安定輸送確保の観点から、各国内での輸送は自国籍の飛行機に限るとした規制である。この「国際民間航空条約(シカゴ条約)」の取り決めに、1953年、日本も加盟した。これにより、国内でパンナム機を運航しようとしていた「日米航空」の計画は、頓挫することとなってしまった。